web版 第17-3号(No20)
   
  古い由木への散歩道 その一  広報部 大島錬三

由木の各所に古くからの地名が残っていますね。土地のお年寄りには馴染みがあって「ばんば」といえば、すぐにピンときます。しかし下柚木の育ちと違って、この土地に住んで間もない方々には「バス停殿ヶ谷戸の南側にある坂道を登った辺り」と解説していただかないと会話へついて行けません。

詮索好きの私は、ついなんで「ばんば」って云うんだろうと考えてしまいますが皆さんは如何でしょうか。

今回は、歴史へ少し触れてから、下柚木周辺の地名のいわれを紹介し、これを由木全体へと拡張、次いで昔話やお年寄りの方々の思い出話にも発展させてみたいと思います。

調べ始めてまだ序の口ですが、なるほどという地名や興味深い昔話もありました。まずはご一緒に散歩して見ましょう。

資料は、由木中学校(昭和四十二年発行)「みんなの郷土由木」からの引用です。他の資料からの引用があればお断りいたします。歴史的な文章は、ともすれば堅苦しくなり勝ちなので、できるだけ現在の姿も組み込みながら読み易いように工夫して進めます。

私たちの住む「由木」は南多摩の中央にあって、大栗川をはさんで、南北の丘陵を基点とする沢山の谷戸(丘陵地の谷間で小川の源流を指す環境のことで、これに関連する森や湿地をひっくるめて谷戸という)からなっていました。しかし丘陵を削り谷戸を埋めて住宅が沢山できましたので、今では里山の面影を残すような谷戸はごく僅かになってしまいました。

古代人が住んでいた大昔の頃、下柚木の平地は湿地帯だったようで、原始的な稲作をしていたと思われる遺跡が中山の白山神社にあるそうです。
大栗川の源流は、鑓水にあります「絹の道資料館」の北側約一キロメートルに位置する大塚山あたりです。この山は鑓水地区で、すぐ後ろは北野台団地で公園や絹の道碑があります。

この大栗川の恩恵を受けて由木の平地では稲作が盛んでした。また丘陵地では畑作や炭焼き、桑の栽培(養蚕)などで生計を立てる農村地帯だったのです。これは由木に限らず多摩一帯がこのような感じの土地でした。
永林寺を訪問すると、千三百五十年頃を前後して戦国時代に土豪からの浮かびあがった「戦国大名・長井氏の城郭」、その後を受けて「戦国大名・大石氏の城郭」があったそうです。現在の由木城(心月閣)として保存されている城址は千五百十年頃のものです。

と云うことは、その昔には武士たちが住んでいて、この地域を統治していたんです。長井氏の本城は片倉城、大石氏の本城は滝山城でしたが、支城のあった下柚木は由木地区の中心地だったんですね。

古代、中世、近世の歴史的なお話や民話・行事・文化財などは折々に触れるとして、まずは下柚木周辺における地名のいわれを紹介いたします。

●柚木 ゆうの木(木綿以前の布の原料)から出た名という説と柚子から出た名であるとする説もあります。

●殿ヶ谷戸 バス停に「殿ヶ谷戸」という名前がありますね。今はバス停の北側に田んぼと柿林が少しと南側には梅林があります。野猿街道が四車線になる前頃は、谷戸らしく田んぼが多かったのですが、宅地化が進んで谷戸の面影は薄くなりました。いわれは康平年間(千五十六年)、横山党の祖である小野一族の小野義孝の孫、横山六郎保経が下柚木に住んで由木氏を名のり、この地域を治めた屋敷跡があった当時からの呼び名のようです。(注記)ここに住んでいた殿様は、大石氏の時代もありました。どちらが正しいのか、明確には分かりません。

●馬場・番場(ばんば) 昔、武士たちが馬の調練をした所で松木や堀の内にもあります。下柚木のばんばは畑の多い台地で、岡を上り切ったところに大学セミナーハウスまで通れる小道があります。これを二百メートル位入ったところにどんどん焼きの場所があります。かなり昔の野猿街道はこの小道だった頃もあったそうで、今は存在しませんがお寺があったり、半鐘が置かれていました。

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