web版 第17-4号(No21)
   
  古い由木への散歩道 その二   広報部 大島錬三

●まつば 下柚木の山下(由木支所そばの富士見橋を渡った右側の山すそあたり)をいいます。昔、的場だったそうで、弓の訓練をするのに丁度良い地形のようでした。裏手が山なら、矢が的を外れても安全だったのでしょうか。
 この辺は、土地開発される30年位前までは小高い中腹に古い民家が並んでいて、のどかな感じを味わえる散歩コースにはとても良いところでした。

●はっつけば 「はっつけ」とは「はりつけ」がなまった言い回しです。昔、はりつけ場のあった所で、下柚木、殿ケ谷戸の西方にあり、獄門松のあったところともいわれています。
 ここにまつわる由木の義人のお墓が堀の内の保井寺(ほうせいじ)にあるとのことで、境内を訪ねてみました。

「保井寺・井上七兵衛のお墓」

 井上七兵衛は、井上掃部之輔頼秀(保井寺開基)の子として、同じ清和源氏の流れをくむ主君信濃源氏木曽義仲の末裔・大石定久の伴として天文7年(1538年)に一族と由木堀の内へ住いを移しました。
 慶応7年、由木十五ケ村領民が年貢に苦しむのを見かねて、別所薬師堂に七兵衛を始めとする各代表が集まり、田畑お縄改めの一身連判を願い出た。
 数日後、裏切りものが出た後に差し戻し連判請願を願い出たため、猿丸御林において打ち首となり、殿谷ケ戸獄門松に首を晒されました。哀れに思った者が、保井寺の一角に密かに埋め、その後建てられたお墓が現在でも残っています。/墓誌よりの抜粋

●蔵郷(くらごう) ひな鳥山のあるあたりを蔵郷谷戸といいますが、30年位前までは田んぼと畑がいっぱいありました。最近は住宅が増えて里山の風情は少なくなりました。
 昔、兵糧や武具の蔵があったそうです。この谷戸の奥のひいち池は鎗(やり)を洗った池といわれています。

●大田平(だいだびら) 由木の伝説にあるお話しでは、大太法師が足を引きずって歩いたので平たくなったからとか           
 大田平は、下柚木と上柚木の境あたりですが、南大沢行きのバスが大栗川を渡るところの由木街道・T字路信号に大田平と書いてあります。では、次にこの伝説の紹介をいたしましょう。

「大太法師の足跡」

昔々、この地方に大太法師という大男が、南の海を渡り相模湾から上陸して来ました。
 大男が日本に来て最初に目に写ったのは富士山でした。大男はなにを思ったのか一番大きな富士山をかつぎ上げましたが余りに重いので元の場所に置き、隣りにあったもう一つの富士山を担いで北へ向かって歩き始めました。淵野辺にある鹿沼(16号線に近い鹿沼公園)や菖蒲池は、この大太法師の足跡だといわれています。
 大男の担いだ富士山は非常に大きく重かったので力を出し過ぎ、そのひょうしに大男はふんどしを切ってしまいました。なにしろ大男のふんどしなので引きずった跡が細くひこんでしまいました。これが今もある「ふんどし窪」という所です。
 大男はふんどしを直して歩き出し、遂に由木にやってきました。いくら大男でも大きな山を背負っているのですから疲れたのでしょう。足がふらつき出し、思わず足を滑らせ大男はあわてて手をついて身体を支えました。そのひょうしに背負っていた山の綱が切れてしまいました。そこで近くの藤蔓を集めて綱を作り、山を背負い直して歩き始めました。
 長池(別所地区にある長池公園)は大男が手をついて出来た池だといわれ、今でも手の形をしています。そして、この長池の周囲には大男が藤を皆取ってしまったので、藤は一本も生えていないそうです。
 疲れきった大男は、足もとにある小さな山をまたぐことが出来なくなって遂に足を引きずり始めました。大男の引きずった足跡なので、その跡が平らになってしまいました。
 これが上柚木と下柚木の境にある大太平(だいだひら)のいわれです。今はなまって大田平(だいだびら)の地名になっています。

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