web版 第19-4号(No45)

  懐かしい下柚木風景

 多摩ニュータウンが開発される前の下柚木は、とてものどかな土地でした。
 昭和39年2月撮影の「合併問題で揺れる由木村」と題した43年前の貴重な写真(「目で見る八王子・日野の100年」 発行=(株)郷土出版社 南大沢の図書館所蔵)の解説文には、由木村(東京都南多摩郡)は八王子市への合併をめぐって賛成派と日野への編入を望む反対派とが真二つに分かれ、村内で小ぜりあいが続いた、とありました。
 旧由木支役所は、現由木事務所の仮駐車場にありました。今でこそ、田んぼはバス停・殿ヶ谷戸付近にしかありませんが、当時は消防分署の前や由木郵便局の裏手から由木中敷地までとか沢山ありました。大栗川も現在のコンクリート3面張りではなく、ウナギやハヤが取れ、子どもたちは水遊びができたそうです。
 郷土史の紹介によりますと、東西に長い由木村は、西南北三方を山に囲まれ、平坦部では大栗川の水を利用して水田が開かれ、丘陵地帯では畑が耕作されていました。大地主は少なく、小規模農家の大部分が自給自足体制で、副業として養蚕が行われ、農閑期には目籠などの副業に精を出していました。 
(広報部記)

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  由木の伝説・さび田  中山

 中山の白山神社の境内は、昔、長隆寺というお寺のあった跡だそうです。
 そのためでしょう。今もこの神社の境内には、石のまん中がくぼんだ大きな礎石があります。このくぼんだ礎石が長隆寺の鐘楼の跡だと言われています。
 このお寺の鐘はとても大きく朝夕「時」を告げる鐘の音が遠くの方まで聞こえました。そのため中山の人たちは勿論、上柚木や下柚木の人たちまで、なくてはならない大切な鐘になってしまいました。
 ある日のこと中山に山火事がおこり、火はどんどん燃え拡がって遂に長隆寺も焼けてしまいました。この火事がおさまってから人々がお寺へ来てみるとお寺の燃えた跡に、あの大きな鐘が有りませんでした。村人たちは大騒ぎをして探しましたが、遂に見つけ出すことはできませんでした。
 それから幾年か経ったある日、お寺の下にある沼田から真っ赤なサビが浮き上がって来ました。村人たちはその田を見て焼け落ちた鐘は、この中に沈んだのではないかと考えました。そして、皆と相談の結果、田を掘ってみることにしました。それから幾日もかかって田を掘ってみましたが、鐘は出て来ませんでした。
 しかし、それからと言うもの、この田から赤いサビが次々と浮いて来て消えることがないそうです。

◆ 郷土史より

 1826年正月、中山神社裏の塚が崩れ「鐘と経筒」が出土。1884年、社殿を今の所に移したとき「経筒と土器・金粉」が出土しました。
 経筒の中の法華経写経・奥書に次のように書いてあります。
仁平四年、武州国多西郡舟木田
御庄内長隆寺許、西谷写之・・・・・

 平安時代には、写経を経筒に入れて聖域に奉納する風習があったそうです。
 また当時、中山には猪が多く生息していて、勝田天忠らが中山で猪狩りを行ったとあります。

 中山には、猪やムジナ、サギが沢山に棲んでいたらしく、これらにまつわる昔話が幾つかあります。

◆ 鐘の真っ赤なサビ?
   
 田に落ちたらしい鐘から「赤サビ」と言うことが気になり調べてみました。
 鐘のことを梵鐘といいますが、梵鐘の主な役割は本来は法要など仏事の予鈴として撞(つ)く仏教の重要な役割を果たす。朝夕の時報(暁鐘 - ぎょうしょう、昏鐘 - こんしょう)にも用います。
 普通、青銅製が多いが、小型のものにはまれに鉄製もあるそうです。通常、口径1尺8寸(約54.5cm)以上のものを梵鐘と呼び、それより小型のもの(一説には直径1尺7寸以下)を半鐘(喚鐘、殿鐘)といい高い音で、用途も仏事以外に火事などの警報目的でも使われる・・・。
 とすると、中山・長隆寺の鐘は赤サビなら青銅製ではなく鉄製?、「大きな礎石は鐘楼の跡」なら青銅製?。まっ、昔話だからナゾはナゾってことにしましょう。

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発行 下柚木町会  編集 下柚木町会広報部  simoyugi@inr-hat.jp

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