web版 第22-8号(No85)

  古き時代の野猿街道(その1)   郷土史研究家 下島 彬

 野猿街道は昭和の初め頃まで、小野路道(*小野路町は多摩市尾根幹道路南側の町田市に位置している)と呼ばれていた。中には由木街道と呼んでいる人もあった。小野路道は八王子市子安町の興林寺前(*八王子税務署の北側隣り)より発する。
 興林寺前で大義寺(*元横山町二丁目の八王子警察署北東側隣り)へ通ずる古川越道と南へ行く小田原道と交わっている。「小野路道」は子安村より北野村ー打越村・・・・猿丸峠を経て小野路村に至り、鎌倉街道に連絡していたもので、近世以前この古街道についての史料は不明であるが、おそらく江戸時代の街道と大体同一のものであったと思われる。大義寺より西への八王子城古道・興林寺より西への旧甲州街道にも連絡して東方に伸びる交通路であって、由木大石氏の擡頭により発達し、戦国時代に最も利用されたであろう。
 沿道には『中山の長隆廃寺(白山神社経筒経文奥書に仁平四年ー一一五四ー九月廿日武蔵国西郡船木田長隆寺と書いてある)』、『源義朝・頼朝の帰依僧円淨坊開山の別所蓮正寺』、『天文一五年(一五四六)大石定久開祖、定久の甥長純(?〜一五六五)開山の古刹永林寺』などがある(八王子史)。
 現在その名をとどめているものは子安町の山田川を越える「小野路橋」と北野町の横浜線と京王電鉄の陸橋の下の踏み切りに記されている「小野路道」のみである。
 小野路道の中間には急坂をなす野猿峠があり、北には山田川・湯殿川、南に大栗川が流れている。各川とも昔は相当蛇行していた。小野路道は由木で津久井へ達する津久井往還と合し、また大栗川の南尾根上を平行する「鮎の道」が東中野あたりで合流する。江戸の将軍への献上鮎を運んだ道である。
 小野路道沿いの寺は八王子史で挙げている他に、興林寺、玉泉寺(*越野)、清鏡寺(*大塚御手観音)を始め有名寺院が多い。
 打越村には六寺もの寺があり、その他沿道に数寺が存在した。また中世には二日市場(松木)、七日市場(北野)などがあった。豪族の館や城郭の跡も多い。
 先土器時代(石器時代)には野猿峠を中心にして、多摩丘陵には僅かな人口であるが人間が住んでいたことは明らかで、稲城市坂浜出土の石器は5万年前ということであるが、野猿峠付近にも当然人間がいたと思う。
 松木、上柚木、下柚木、堀之内、鑓水などの丘陵から一万年前の先土器時代の遺跡が発見されている。昭和28年鑓水からは一万年前の黒曜石のポイント(石槍)が発見されている。下柚木から打越にかけての野猿街道沿いにも、縄文中期以前の矢じり石や土器が出土している。
 道は初め獣たちが通っていた跡いわゆる『獣道』を人間が通るようになって、獣を待ち伏せするのに使った。そのうちに人間は獣道と獣道をつなぐ人間の近道を作った(藤森栄一「道」)。
 16号バイパス工事の際、打越町中谷戸遺跡より猪の落し穴が116個も発見されたが、新聞には報道されなかった。その後昭和62年、元八王子町裏宿遺跡より猪の落し穴が60個発見されて、新聞に報道された。『日本古代の狩猟は野獣群を追いかけて弓矢で射取るというようなことは少なかった。・・・野獣をとるにしてもケモノ道で待ち伏せするとか、穽を作ってそれでとるようなことが多かった。・・・われわとるようなことが多かった。われわれは昭和45年横浜市霧ケ丘という所で縄文時代の遺跡を発掘したことがある。そのとき、丘陵の上で120あまりの陥穽を掘り当てた。・・・とくに猪をとることを目的としたものが多かったようであり、尾根から谷の湿地に向かって配置されているものが多かった。猪はケジラミを落とすために湿地でからだをこする習慣がある。・・・』(宮元常一「絵巻物に見る日本庶民生活誌)。
 そのように獣が越えていく丘陵を「打越」とか「押越」「落越」などいう地名で地名に呼ぶようである。一説には城址に近い地点に「打越」の地名が多いそうである。
 打越町大畑より小野路道と分かれて、白山神社へ登って行く道を白山神社道と地元の人々が呼んでいる。長隆寺の頃からあったかどうか判らないが古い道と思われる。
 野猿峠はかなり急峻であったから、白山神社の方を迂回して下柚木へ抜けたかも知れない。まだ鎌倉幕府が出来ず、街道名もない頃、野猿峠越えは現在の鎌田鳥山への登り道、長沼六社宮横(*北野街道信号長沼駅入口の南側付近)の登り道など幾つか考えられる。いちばん最後の小野路道は現在の野猿街道の東側裏道あたりを通って朝信学院(*バス停野猿峠の北側/墓地誘致の反対運動があった所)の所を越えていた。
 長隆寺のあった平安時代は多摩地区に官牧や勅旨牧があって、多摩丘陵は馬の牧畜が盛んであった。馬を引いた防人たちが多摩の横山の各峠を越えて西国と往き来していた。
 小野氏の後裔たる横山党の時代は鎌倉への往来がはげしくなり、小野路道が確立した。和田義盛の乱で、横山党は相当人数多摩丘陵を越えて、鎌倉へと走ったであろうが敗戦、滅亡の道をたどった。横山領を拝領した大江氏は片倉城や広園寺(*京王線山田駅北側/東京都指定史跡)などを築造したが、小野路道を一層使用したことであろう。
 由木氏の時代は判然としない。『由木氏邸跡 下由木村 小名殿ヶ谷戸というところにあり・・・すでに天正(1573〜92)までありしことなれば、増上寺観智国師もこの地にて生じられ、数代続きたる名家なりし・・・小名を殿ヶ谷戸と称するところは永林寺境内の辺より御嶽の社地あたり・・・旧地ゆえに永林寺などをも造立せしことなるべし』(武蔵名勝図会)とある。  
 又、下柚木村には馬場、的場、旗松などの地名があったことを記している』とある。『下柚木字殿ヶ谷戸に殿屋敷というがある。或いはこれが由木氏どもの居ったところか』。又『柚木は七生村の平山と背中合わせ』にして居る。上下の二大字に分かれる。此処は由木氏の居ったところである。
 由木氏は二家ある。一つは横山党の一族で、一つは西党の一族である』(武蔵野歴史地理)。『由木両家は鎌倉幕府に仕えていたが、元弘(1331〜34)建武(1334〜38)以来管領の麾下大石の知るところなり・・・又北条氏照の所領となり、由木氏が衰えて、北条氏の麾下となれり』(武蔵名勝図会)
 南北朝時代には足利・新田勢と北条勢が分倍河原を中心に多摩川の東西に戦闘を開始したが、布陣は秋川、淺川にまで及んだらしい。多摩川は谷戸が多いので「馬出し」「武者かくし」には格好の地形である。丘陵の中には軍道らしい形状の山道が現存している。
 小野路道沿いには中世、特に南北朝のものが多い板碑を出土している。板碑の多くは武士階級のものが多いというから、分倍河原の戦いに関係した武士のものかも知れない。(次号に続く)

※注記 @この文は橋本豊治画伯著「野猿街道の今昔を描く」への寄稿文です。又 掲載は画伯のご了解を得ております。
 A括弧内の*印のある注釈及び太文字表現は、広報部が参考に加えたものです。

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