「由木小学校」 著者 橋本豊治
現在は八王子市立由木中央小学校と呼ばれているが、私が小学生の頃は由木村立で村内では本校と言われていた。上柚木には西分校、東中野には東分校があり、五年生になると本校に来るようになっていた。
昭和10〜30年頃
) 私は小学校へ昭和十四年春入学したが、やはり一番印象に残っているのは十本位あった大きな桜の木で、満開の時は壮観だった。高等科も二年まであり、尋常小学校の名称であったが、十六年から国民小学校と呼び名が変わった。街道から鑓水方面に分かれる角(*信号:由木中央小前)に現在もトタン屋根の二階屋がある。今は大熊さんが経営する文具店だが、昭和の初め、内田右十郎さんの父親内田和吉さんがみかど屋という屋号で文具や菓子の販売を始めた。後、広盛堂菓子店が開かれ十五年位まで続いた。
昔はよく小学校の庭を利用して、夜、巡回映画会が開かれた。数本の丸太が組まれ、白い布が張られたスクリーンが用意されるのを見ると小学生たちは、夕飯もそこそこに学校へ走ったものだった。私は入学前一度父親に連れられて行った時、広盛堂で金鍔菓子を買って貰ったことを覚えている。その美味しかったこと、今でも金鍔菓子を見ると父親と映画会のことが思い出される。
この小学校前のバス停からは、何人もの出征兵士が大勢の人々の歓呼の声に送られて出て行ったのを教室の窓から見送ったものだった。出征兵士は思い出の小学校と桜の木を最後の由木村の姿として記憶に留め、峠道を越えて行ったものと思う。出征とは逆に戦死者の白木の箱の無言の帰還も見られた。
昭和十八年、私が五年生の時、南大沢出身の田中了一さんが所沢の少年飛行機学校を卒業し郷土訪問飛行として、学校の上に二枚翼の赤トンボと呼ばれた複葉機で飛来したのは大きなおどろきだった。九月の青空の中大きな弧を描いたり宙返りしたりし、機上で手を振っている勇士が鮮やかに見えた。田中さんは二十年一月、特攻隊の一員として隼戦闘機にのり、フィリピンの海に散ったとのことである。
昭和元年に造られた小学校は、木造の立派な校舎で、戦後昭和二十七年より新制中学校の校舎として使われていたが、昭和五十一年の新校舎建築にともなって片づけられてしまい、今は思い出の桜の木もなく、記憶に残るものは一つも無くなってしまった。ひたすら小学校の変遷を見てきたであろう西南の丘、金毘羅山も今は削り取られ変形してしまっている。
平成元年頃