web版 第22-12号(No89)

  古い由木への散歩道 その7

           古い由木への散歩道 その7
            下柚木・殿ヶ谷戸の昔話

 谷戸(やと)とは、丘陵地が水に侵食されて形成した谷状地形のことをいいます。住宅地開発前の谷戸には湧水が豊富にあって、これを利用し、畑や田んぼが作られ、のどかな里山だったのが普通です。50年前までの殿ヶ谷戸もそうでした。
 殿ヶ谷戸という地名のいわれは、昔、「殿様が住んでいた谷戸」だったからだそうですが、いつの頃からそう呼ばれているかは定かでありません。そこでその殿様とはどなただったかを調べてみました。
 大石松で紹介した悲運の武将・大石定久公の時代から、更に200年以上をさかのぼった源平合戦の頃のお話にありました。
 今からおおよそ820年前(平安末期〜鎌倉初期)、八王子及び八王子周辺に連なる多摩丘陵を制していたのは武蔵七党の横山党でした。武蔵七党とは現在の埼玉県・東京都・神奈川県あたりを治めていた児玉党・村山党・横山党等、同族的な七つの武士集団からなるグループをいい、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代に勢力を伸ばしていました。
 その横山党の横山六郎保経が由木姓に名を改め、由木北部(永林寺のあたり)に館を造ったそうです(西党との説もある)。このような次第から、殿ヶ谷戸由来の最初の殿様は由木氏になります。由木氏の後に大石定久公が居館(永林寺を建てる前に)を造り住んだそうです。殿様が住めば、その縁戚や家来も住んでいたことでしょうし、今日この土地に子孫が居られて不思議はありません。殿ヶ谷戸という地名は各所にあるようで、近くでは長沼公園の西側(絹ヶ丘)にも殿ヶ谷戸(横山党一族の居館があったらしい)の地名が残っています。
 武蔵七党の頃、この辺の地名は「武蔵国多摩郡船木田荘由木郷」といい、中山・白山神社出土の経筒の経巻が示しています。また、船木田荘を略し「多摩郡由木郷」との記録(1544年)もあります。船木田とは、船を造る杉の木を切り出した所から名付けたそうで、下柚木の地名は下由木村でした。
 武士が住めば、その地に馬術や弓術を磨く場所があるものです。馬の調練場はバス停・殿ヶ谷戸の南側坂道辺りの登りきったあたりで、そこを番場(馬場)といいます。
 5班のあたりを山下といいますが、ここには「まとば(的場)」があったといいます。200年前はすでに的場跡でしたが、弓の訓練に丁度良い地形だったのでしょう。
 番場や的場という地名は、松木や堀之内にもあり、殿様が住んでいました。
 2班・内田紘之さん宅から南陽台に抜けるわき道の付近に「はっつけば」と言われていた場所があったそうです。昔、罪人のはりつけ場があった所で、獄門松があったとも言います。また、このわき道の奥の山上(南陽台)にも殿様が住んでいたという、言い伝えもありますが詳しくは分りません。

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発行 下柚木町会  編集 下柚木町会広報部

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