栗本橋の名付け話 (広報部記)
栗本橋と言うバス停があるのに、栗本橋がありません。60年位前の地図を見ると、大栗川は大きく蛇行していて、今の大田平橋の約200m東側にあるきねやの前あたりに架けられた栗本橋があり、その橋の先は大澤村へ行く細い山道でした。
約200年前、徳川幕府が武蔵国を調査記録した「新編武蔵風土記稿」を読むと昔のことが分り現在と比較して楽しめます。
この調査は徳川幕府が各村に命じ、地誌取調書を提出させた後、役人が現地に出向き調査・編纂したもので、復刻版が八王子市の中央図書館にあり誰でも閲覧できます。
この風土(ふど)記稿の「上柚木村」から次のことを報告しています。
栗元…昔、蔵郷(注1)の西に栗の木があり、実を結ぶ頃には鑓水川に落ちました。それ故、ここより下流は栗川と名付けられ、この場所を栗元と呼ぶようになった。
鑓水川…川幅2間ほどで、水源は鑓水村にあり、約16町流れてから、栗元の付近で中山川と合流し、更に1町ばかり流れ下柚木村に達する。鑓水川と中山川を合流した地点(注2)からの下流を大栗川と呼ぶ。
次に「民話・栗元の大松」を紹介します。
鑓水川と中山川が合流する、上柚木村の栗元あたりは、大ぶりでつやのよい栗の産地だったそうじゃ。
「栗元の大粒」といって、なかなか人気があった。甘みも品があり、口の中にうまさがひろがり、いくら食べても、味が落ちない。「あとをひく、うまさだ」といわれた。
この栗は、うまいばかりでなく、毎年、 どっさりと実をつけた。とりきれんほどなったもんじゃから、秋のさかりには、川の中に「ポッチャン
ポチャン」と、落ちたそうじゃ。
「おや、また栗がおちる」。晩方など、里の家々に、栗のおちる音が聞こえた。
どっさりなるもんじゃから、里の衆も、川に落ちるのを、もったいないとも、思わんようになっておったということじゃ。
「川に落ちてながれるのも、ご供養のうちじゃ」なとといっておった。
大栗川が、いくつもいくつも流れ・・・、いつのことからか、この川が、大栗川と呼ばれるようになったと・・。(おしまい)
別の雑誌を読んでいたら、大栗川の名は真慈悲寺(注3)の庫裏のそばを流れていたので大庫裏川と呼んだが、いつのまにか大栗川という名に変わったという説があります。私は下柚木に住んで40年、栗が川にのポッチャン説を信じたいですね。さて、皆さんはどちらを信じますか?
注1…蔵郷という地図上の地名は、現在はありませんが、大田平橋の北側あたり(ひな鳥山等がある谷戸)の古い地名です。
注2…現在の「大栗川と中山川」の合流点は、由木街道の信号・中山入口(前田橋) のあたりです。
注3…真慈悲寺は平安末期から鎌倉初期、日野市百草地域にあった幻の丘陵寺院。
※編集後記
◆民話は史実にもとづいて書いてあるときもありますが、タヌキやムジナが出たりの話も多いです。大人が読むときは、昔からのいい伝えの一つと考えましょう。