web版 第23-2号(No91)

  野猿街道の今昔を描く

     「生家入口付近より峠方面を望む」 著者 橋本豊治
  
 私の生家は小さな橋の手前を左に入る小路の奥にある。この生家に私は、28歳の5月まで住んでいたので、家の近くのどの場所も思いで深い場所である。
 右下から来た旧道は橋を渡り右に折れ、稲むらのあるところを経て、青木勇寿さんの家の前を通り峠に向かっていた。右手の崖の所は地域の共有山だったので、新道を作るのに削り、土を使用したとのことであった。その山は半僧山と呼んだ。
 台状の畑の手前には、以前松浦豆腐店が何年間か店を開いていたとのことである。
 橋の左側には長さ3メートル位の板で止めた小さな堰があった。私の家では農耕で汚れた牛や農機具をここで良く洗った。
 橋の下は二段の段差があり、右側のツグリ谷戸から流れ来る水と合流していた。今、ツグリ谷戸は、南陽台の下に姿を消している。戦前はこんな細い川でもフナやハヤ、ウナギまでも取れた。
      

 昭和3年に出来た新道も、アスファルト舗装してあるのは今の南陽台入口の200メートル峠寄りの所までで、この辺は砂利道であった。この道も村の幹線道路として重要な道であった。
 朝早く何台もの下肥え用の桶を積んだ牛車が、シャリ、シャリ音をたてて登っていった。続いて通勤、通学の自転車の列と、時折バスとトラックが通ったが、昼間は静かな田舎道であり、夕方一時、帰りの人々でその静けさが破られた。又大雪の時には殿ヶ谷戸地域の人達は、野猿峠の頂上まで、新道の雪を掃くのが決まりだった。何時からそう決まったのか判らないないが、これは昭和30年前後まで続いた。雪掃きの合図は飯田磯吉さんが担当で法螺貝を吹き全戸に伝えた。後年はラッパでの合図だった。私も何回か家人の代理で雪掃きに出た経験がある。大雪の続いた年は大変だった。 
 農道等の、新道以外の道の修理には春と秋の彼岸の入りの日、地域の人々が出てそれに当たった。当日をオヒマチと呼んでいた。各戸三合の米とおかず代として何らかの金を出し、夜、薬師堂で一杯やりながら会食し、地域の話をいろいろした。
       

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発行 下柚木町会  編集 下柚木町会広報部

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