web版 第23-2号(No91)

  古い由木への散歩道 その9

            大田平や山下の付近 (広報部記)

 新編武蔵風土記稿を読むと村ごとに「小名」と言う欄があります。小名は「こな」と呼び、土地の特定な場所を示す地名として、昭和10年代までの地図には「字(あざ)又は小字(こあざ)」のような使い方で記載されていますが、現在の住所に利用はされていません(由木近辺では)。
 下柚木村の小名には、殿ヶ谷戸・南ヶ谷戸・馬場・大田平・中島・宮郷・山下があり(注1)、200年前の戸数は78戸と記録されていました。したがって、各小名の集落に住まわれた戸数は5〜15戸程度で、各集落の周りは田畑と山林だったと思われます。
 殿ヶ谷戸とばんばは、本誌第22ー12号で紹介したためこの号では割愛します。
南ヶ谷戸は消防由木分署付近から下柚木会館辺りまでを示す小名で、ここに住む皆さんはばんばの住民と「同じ講中」を組み、昔から道普請や冠婚葬祭などを助け合ってきた集落(3班)です。現在も道普請やどんど焼きなどの行事が続いています。
大田平は、大田平橋の南側にある「理容室リベラ」や「ENEOSガソリンスタンド」あたりで、大田平は第17ー4号で紹介した「大田平法師が富士山の隣の山を担いで歩いたとき、疲れて足を引きずった跡が大田平で、手をついたところが別所の長池だった」との民話がありました。
中島は、大田平橋の南側にある「のまた歯科医院」の後方100m位にある上柚木郷戸公園あたりです。
宮郷は、大田平橋の北側あたりですが、昔ここの丘陵ぎわに住吉社(2×3間の神殿)と鳥居がありました。あるとき風雨雷鳴が激しく、里人が恐怖におののき、ご神体を作って50間上の丘陵に移したそうです。現在、その社は残っていますがご神体は御嶽神社に合祀されています。また、宮郷には光明院と言う天台宗の本堂3間×6間の小ぶりなお寺があったと記されていますが現在はありません。以上に紹介した大田平・中島・宮郷の地域が、現在の町会4班にあたります。
山下は、現在の町会5班の地域で、由木中学校及び中学校西側一帯(富士見台公園の下)を指します。集落の多くはバス停・富士見橋の南側100mのあたりで、大栗川から丘陵裾までは一面に田んぼや畑でした。大片瀬公園の南東50mあたりに寶性寺(今は在りません)がありました。この寺は永林寺の末寺(まつじ)で、開山は僧・長純がなさったそうです。僧・長純は、大石定久公が滝山城へ入られたときに、叔父であった僧・長純に由木城を譲られ、永林寺の初代住職となられた方です。多摩ニュータウン開発で、大片瀬公園の南東側を工事したときに、お寺の跡地だったことが確認されております。また、この寶性寺の南側である丘陵裾が的場跡と言い伝わっています。バス停・富士見橋の200m位上にこぶし公園があります。ここの森は諏訪の森と呼ばれ、200年前には諏訪社(大石信濃守建立された寶性寺のもので社地50坪)があり、この社跡は多摩ニュータウン開発では確認できなかったそうですが、昔から大きな木が繁っていて、ここに社があったと言い伝えられていたそうです。
また、諏訪社のそばにあった道は、道志川で取れた鮎を徳川幕府へ献上するための運搬道で、この旧道跡(下柚木にも鮎継ぎ場ありと記されているが位置不明)が今でもこぶし公園で見られるそうです。この鮎継ぎ道は松木を抜け、由木・堀之内の鮎継ぎ場に達します。鮎継ぎ場とは、人夫を仕立て江戸まで運ぶための中継地のことです。
その他、溜め池(20間×12間)が山下にありと記されていましたが、土地の皆さんは知りませんでした。近くの堰には大栗川の佐森堰(現在のさんもり橋付近)があったために水利が良くなり、溜め池が不要になったのかも知れません。
(注1)風土記稿掲載部分の解説は、殿ヶ谷戸近辺・南ヶ谷戸・御嶽神社についてはバス停殿ヶ谷戸の南側にお住まいの飯島清さんから、大田平・宮郷・中島については宮郷にお住まいの指田正治さんから、山下近辺については大片瀬公園の斜め向かいにお住まいの内田栄治さんにお聞きしました。
*以上の三氏は、快く「昔と現在の繋がり」を解説いただき大助かりでした。この場をお借りし厚く御礼申上げます。

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  下柚木の生活事情・今昔 その6

                   買い物

 つい最近のことですが、西八王子駅前の甲州街道沿いにあるローソンストアへ入ったら店内に野菜が沢山並んでいました。『アレッ変だな』と思い、店内をグルッと回ったらミニスーパーのような感じで、小人数が自炊するのに十分な商品が販売されていました。コンビニが生鮮食料品を扱い出したことを知ってはいましたが、目の当たりにすると何故か軽いショックを受けました。高齢者が多くなるこれからの時代へ対応させる販売戦略の一環ということでした。
 そういえば最近、ガソリンスタンドがコンビニや喫茶店を同じ敷地でやっていますね。人口が成熟した地域では、店舗が生き残るには「買い物難民(注1)も大切な顧客」と考え始めたからです。高齢者で子どもと同居していない方々なら、そう遠くない将来「自分も買い物難民になる」という不安を、どなたでも感じていると思います。
 今回は、このような視点から「買い物の下柚木・今昔事情」にふれてみます。
 昭和50年前後の下柚木には(以下敬称略ですが)マルカヤ(パン・菓子・魚屋・八百屋)、いずみや・おおはしや(酒屋)、1班内道の豆腐屋、伊東(たばこや)、大熊(文具)、小俣(衣料)、農協(雑貨他)など、古くからのお店が揃っていて、買い物の不便さを余り感じませんでした。当時は駅から遠い割りに買い物と子育てに恵まれた土地でした。
 ところが、多摩ニュータウンの開発と共にスーパーマーケットの進出が著しくなり、次第に地元商店が閉店となって行きました。しかし、これで困ったのはクルマを持たない家庭で、クルマを持つ家庭では月数回のまとめ買いに行き困ったことはなかったでしょう。
 昨年12月14日のTV番組(ガイアの夜明け/スーパーマーケットの新らたな戦略)を観たのでその一部を紹介します。
 商店街での買い物の良さは、顔なじみ同士の挨拶や情報交換で連帯意識を保ちながら地域の仲間同士の助け合いができることです。一方、多くのスーパーや大手チェーン店は利益第一主義のため、売れなければ即時撤退をし、住民との互助へは目を向けていないとの意見もありました。
 また、消費者の商店街に対する発言では、共働きの場合には夜早く閉める地元商店街より、夜遅くまで営業する駅前スーパーや土日のまとめ買いについ頼ってしまうとか。 
 子連れの若い専業主婦の発言では、スーパーではカートに商品を入れながらほとんどの買い物が楽に一度で済むが、商店街ではカートが無いから買い物袋が次第に重くなるし、駐車場が遠いとかでした。勿論、この方々には行動力があるので買い物難民ではありません。
 次にスーパーの最新版・新出店戦略を紹介します。
 新たな進出スーパーがターゲットとする顧客の範囲は、駅前のスーパーで半径5〜6キロm。郊外の大型ショッピングセンターは、顧客がクルマなので半径20キロm。小型スーパーで半径1キロmだそうです。
 最近、大手のスーパーが買い物難民へ対応させた「売り場面積30〜50坪のミニスーパー出店」を試み始めたという事例がありました。このケースのターゲットは、「できれば近くに集合住宅もあり、そこには高齢者の居住率が30%以上あって、他店との距離が300m以上」なら出店候補地となるそうです。自転車の顧客は半径500mと計算するそうです。
 別のケースでは、スーパー1600店舗へ商品を卸す問屋が、自社の売れ筋商品のデータとメーカーからの一括購入を武器に安くが特色のミニスーパー出店を開始しました。
さて、下柚木の買い物難民とその予備軍が待望するスーパーが誕生する時期はいつ頃なのでしょうか。 (広報部)

(注1):買い物難民とは、大規模店との競争や深刻な不況と経営難などから、その地域にある店舗が閉店してしまい、そこの地域住民(高齢者など、特にクルマの運転できない人々)が生活用品購入に困る社会現象、またはその被害を受けた人々のことをいいます。

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発行 下柚木町会  編集 下柚木町会広報部

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