web版 第23-3号(No92)

  野猿街道の今昔を描く

          「野猿街道の思い出」 著者 橋本豊治
  
 今では自動車でスーと広い道を越えてしまうので、峠道という感じは少ないかと思うが、曾ての道は狭く、曲がりくねった道で、村人はこの峠が無かったらどれ程楽だったろうかと思っていた。下柚木殿ケ谷戸の農家に生まれた私には、峠の向こうにはいろいろ新しい物、珍しい物があると聞かされ、峠を越えるということが大きな望みでもあった。父親(平吉)は、春に竹の子、夏には野菜等、秋には栗、冬には薪や炭をリヤカーに積み知人宅に運び、帰りには下肥を汗をふきふき峠道を運んで来たものだった。

     


 小学生の私は、十月の大善寺の御十夜の祭等、年に数回僅かな小遣いを貰い、峠道を走るように登り、そして下り、北野駅から東八王子駅迄電車に乗るのが楽しみであった。昭和二十年四月から、中学生として現在の市民会館のところにあった都立第二商業学校が、多摩工業高校と校名を変えていたその学校へ自転車で通った。入学はしたが終戦の年で勉強も一、二時間ですぐにB29の空襲でサイレンに追われるように、打越坂を自転車で駆け上り帰る毎日だった。八月二日未明の、八王子空襲の時には、市街地が燃える赤い光の中に峠全体がくっきり浮かび上がり、その上空にB29の機体が銀色に輝き、焼夷弾がばらばら落ちてくるのが実にはっきり見えた。朝になり友人三人で峠を越えてみると、煙がたなびき町並みは全く眺められず、打越地域でも何軒かの農家が焼けていた。峠道のそこ、ここに電波を妨害するための細いテープ状のアルミ板が散乱していたのが印象的であった。
 さて、私は中学三年の時、美術教師の南部正一先生に勧められ東京芸術大学を目指し、高校は立川高校へ行くようになった。父は農家の子が絵描きの学校へ行くなどとんでもない、と反対したが、母の説得で行けるようになった。条件として八王子まで歩き、あとは電車で立川迄行くことであったので、私は、雨の日も、風の日も毎日峠道を歩き通学した。大学へも北野駅まで歩き、京王線で新宿、そして神田、上野と通った。北野へ嫁ぎ、一児を残し若くして亡くなった芳江姉は、昭和十年前後、水道橋の洋裁専門学校へ通うのに八王子駅迄歩いたとのことで、父親としては歩くのが当たり前の考え方であったらしい。父は、姉が毎朝六時前に家を出るので、冬期には暗いので毎朝湯殿川にかかる大橋迄送って行ったとのこと。家から八王子駅迄、5キロ余り。どう急いでも五十七分が最短時間であった。

       

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