web版 第23-3号(No92)

  古い由木への散歩道 その10

          上柚木・下柚木の分村など (広報部記)

 江戸時代の中期(1707年)に柚木が上柚木村と下柚木村に分村されたそうです。そのときの境界線は大栗川にある前田橋の通りで、東側が下柚木村、西側が上柚木村でした。しかし、当時の村分割境界は曖昧だったようで、中島・大田平・宮郷に住まう方々がどちらの村を選択するかは自由だったと言い伝わっています。その影響があったためか、現在でも住居が入り乱れた飛び地の状態です。また、ひな鳥山がある蔵郷は、中山村・下柚木村を挟み上柚木村の一部でした。しかし、これは上柚木側から見れば、蔵郷は下柚木の飛び地が一部にあるものの上柚木の地続き区域でしょう。後年のことですが、明治22年に町村制へ移行し、「由木の下柚木村を始め鑓水村・大塚村など11村が合併」し由木村となりました。 
 このときの下柚木住所名は「神奈川県南多摩郡由木村大字下柚木」でした。更に明治26年に南多摩郡が神奈川県から東京府に移され「東京府南多摩郡由木村」、昭和18年に東京都制が施行され「東京都南多摩郡由木村」、昭和39年に南多摩郡から八王子市へ編入して由木村が廃止され「八王子市下柚木」と現在の住所名になりました。続いて、昭和61年に下柚木の一部が南陽台に編入され、平成6年に下柚木3丁目、平成8年に下柚木2丁目が誕生し、現在に至っております。
 新編武蔵風土記稿(約200年前)には、村ごとの「旧(舊)家」が記載されています。辞書によると、「旧家とは、古くから続く由緒ある家系を持つ家」と記されています。
 大澤村・上柚木村・鑓水村・堀(ノ)内村・越野村・中野村にはこの旧家の記載がなく、中山村に「百姓喜三郎:先祖を石井善左衛門と言い、小田原北条氏に仕えし頃の槍一筋を近くの地頭へ譲っている」。大塚村に「百姓伊兵衛:井上を名乗る先祖某が承応年間(1652年〜)に書き残したものによると、遠い先祖は木曾義仲の家臣である井上九郎光盛という者が信濃国から当地に来た。九郎光盛が当村を開き、八幡社を勸請し、その子孫が堀(ノ)内村を開き、後年に越野村を分郷したと言う」。
 由木の他村では以上2軒のみが旧家記載でしたが、下柚木村には次の6軒(注1)が記載されていました。
「百姓忠藏:先祖を川和豊後と言い、御嶽神社の棟札(注2)を見ると久しい昔に土着している」、「百姓徳右衛門:先祖を伊東日向介と言い、天文(1532〜1555)の頃の人でした。その子孫・淡路介が八王子城主氏照に鉄砲頭と仕えていたが落城の日に討ち死。その子・伊藤将監から7代にわたり今に至るとの系図がある」、「百姓新藏:先祖を内田小右衛門と言い同棟札にある」、「百姓勇助:先祖を小林図書と言い同棟札にある」、「百姓榮藏:先祖を田倉佐渡守と言う」、「百姓傳左衛門:先祖伊藤太郎左衛門は、本姓大石氏であると棟札にあり、家にも大石系図がある。その系図によれば大石播磨守の所縁で大石を名乗った。また先祖の佩刀として備中長船祐光を持っている」。 
 さて、皆さまご存知のとおり、大石定久公が没されて間もなく小田原・北条方と豊臣秀吉方とが戦った「小田原の役(1590年)」があり、八王子城は前田利家・上杉景勝隊ら北国勢の猛攻により半日で落城し、ほぼ全員討ち死にとなりました。このとき北条方が発した軍役基準は郷村・男子について15歳から70歳までの農民徴発で百姓大量動員を強行しました。また秀吉の指令では『刃向かう者は全員討ち取れ』でした。 
 この戦い以降の下柚木村は、徳川幕府の直轄領(年貢米を納める農地)を経て、昭和40年頃まで農村地域となっていました。

(注1)6軒の家系について、原文を縮めながら現代文に訳しましたが、専門家の校正を受けて居りません。より正確さを要する場合にはご自身で原書をお読み願います。
(注2) 棟札とは、神社・民家などの建物の『建築・修築の記録・記念として高い所にある柱や梁に取り付けた札』です。記録された内容には築造・修理の意趣文・年月や建築主・大工の名・工事の目的などで関連した事柄の記入もあります。
(広報部記)

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発行 下柚木町会  編集 下柚木町会広報部

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