web版 第23-6号(No95)

   野猿街道の今昔を描く

            野猿街道の今昔を描く その9
          「永林寺を中に殿ケ谷戸の集落を望む」 
                 著者 橋本豊治
 
 永林寺は、一五三二年(戦国時代)] 大石定久の叔父、一種長純により、大石氏の館跡をそのまま寺として開基している名刹である。先年、私は小倉住職様の大慈悲心と、檀家の御協力により、本堂の格天井画二百十枚を描かせて頂いた。
 永林寺の東側、今は分譲住宅が建ち並んでいるが、昭和十八年までは松、杉、樅(もみ)等の大木が生えた緑深い山であった。これら大木は船を造るためとか、戦争資材供出として次々と切り倒され、みるみる禿山になっていくのを見たのは、小学校五年生の時だった。現在見る影もないが、寺の前の空地には由木村の役場があり、大きな山桜が、数本威容を誇っていた。そして、裏参道にも十数本の桜が続いていた。



 役場の西側の農家は家内の実家である。父親は運送業をやっていたが、曾ては、豆腐屋をやっていたとのことで、地元では上の豆腐屋と呼ばれていた。小さな煙突のある前の黒屋根の家が曽根豆腐屋で、下の豆腐屋と呼ばれていた。由木には他に松木地区に島田、鑓水に宮崎、堀之内に小磯という豆腐屋があるだけだったので、遠足とか、運動会の前日には稲荷ずし用に油揚げを大勢買いに来たので、早く行かないと買いそびれ、握り飯で我慢しなければならなくなってしまった。豆腐屋の息子さん達は、いずれも他の職業に就き、すでに十数年前に廃業してしまった。盛次という同級生がいたが、彼の兄弟は五人とも皆、豆腐屋のお蔭か、色の白い優しい人達であった。
 農協前から入る豆腐屋の前の道は、旧道と呼んでいたが、野猿街道が昭和三年北野から大橋屋東側まで出来た後、中山の清水善次郎さん経営の十人乗りの由木乗合自動車が通ったと聞くが、よくこんな道を通ったものだと思う。
 家内の父親は伊藤三次郎と言うが、皆から「三ちゃん」と呼ばれ大きな腹をしていたので、大きな腹を三ちゃん腹と言うようになったそうだ。運んだ品物は磨き砂が主で、三多摩一円から相模方面まで、馬車で走り回っていた。酒が好きで夕方北野辺りの酒屋で一杯飲み、後は馬車の上で半分眠りながら野猿峠を越えて帰って来たとのこと。今のように車の往来もなく、道順は馬が良く知っているので無事帰って来れたのであろう。しかし、大橋屋の東から旧道に入って、実家の前に来たので馬はやっと家に着いた、と止まる。
 しかし、酔っている父親はそれが解らず馬を進めるので、馬は仕方なく役場の前を通り農協脇に出て、新道を西に向かい、又、大橋屋東から旧道に入り、実家の前まで来て止まる。父親はまだ気付かず、再度進ませるので馬は仕方なく同じ道をぐるぐる回り、家人が気が付きやっと解放された。こんなことが何回もあったという。思えば長閑(のどか)な時代であった。
 地元の人の話によると、旧道の前の古道は、絵の右手に見える灰色の瓦屋根の青年学校の裏から、畑の中を横切り、永林寺の正面参道入口の前を通り、豆腐屋前の旧道と重なり、左側の伊藤巳代治さんの家の裏から桑畑の中へ、更に西へ、川和惟平さんの旧宅前から薬師堂の裏道へと続いていたとのことである。
 現在、青年学校の裏の道は、由木中央小学校に吸収されて辿ることは出来ないが、それより西への道は細々と辿ることは出来る。

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