web版 第23-7号(No96)

   野猿街道の今昔を描く

            野猿街道の今昔を描く その10
                  「ハツケ場」 
                 著者 橋本豊治
 
  


 場所は明らかではないが、昔 磔場(はりつけば)があったのでこの名が残っているという。古老から聞いた話として、江戸末期、東中野の人が、幕府の御留木(注1)を切り、臼を作ったとして処刑されたことがあった、と大導寺隆助さんは話していた。
 現在、山の上部は切り開かれ、南陽台と呼ぶ新しい町並みが作られているので、昔の面影を偲ぶべき縁(よすが)もない。

   


残されているのは、曾て咲き誇っていた桜の大木の老いた姿と、その根元に忘れられたようにある馬頭観音の碑だけである。碑の裏には「馬持中発起人、内田定吉、内田三吉、飯田亀吉、伊東国次郎、伊藤子之吉の名と、明治二十七年十月、日清戦争軍馬召集に付為健康祈念建之」の文字が刻まれている。馬頭観音の所から斜め左上に上る道は、尾根を越えて長沼に至る大事な道であった。
 村内を流れる大栗川はドブ川である。時には泳いだこともあったが、遊泳には全く適していない。したがって泳ぐためには山を越え、浅川へ行かなければならなかった。
 私も小、中学生時代、夏の日には、よく何人かの下級生を連れ、この坂道を登り、長沼の浅川へ泳ぎに行った。行く時は一日がかりで、弁当と家で取れたトマトやキュウリを持って行き、トマト等は川の水で冷やして食べる、それが泳ぎ以上の楽しみであった。しかし、一日中泳ぎ疲れて帰って来るのは大変だった。長沼側の坂道は急で途中何回も休み、休みして、登ったものだった。ところが、帰りのハツケ場の坂道は皆、飛ぶように走り降りた。
 当時は誰も水泳パンツは買って貰えず、手拭いに簡単な紐をつけた越中褌をはいていた。体を拭いたりした後、棒の先に結びつけ、源氏の白旗だぞ、とひらひらさせて帰って来ると丁度乾き上がった。
 桜の手前にある竹薮の所には、この地方有数の腕の良い木挽き引きの内田幸作さんの作業所があった。製材所のなかった時代は木挽き引きはまさに貴重な存在で、年中各所へ仕事に出ていた。内田さんの娘さんと私とは同級生だったが、金回りが良かったせいか、さっぱりした衣服をつけていて、印象的だった。

(注1);江戸時代に幕府が伐採を禁じた木。

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