web版 第23-8号(No97)

   野猿街道の今昔を描く

            野猿街道の今昔を描く その11
             「炭焼き窯と野菜苗育成所」 
                 著者 橋本豊治
     
 現在の南陽台入口から、数メートル入った所に炭焼き窯があった。以前の面影は西側の畑と土手と旧道の一部に残されているだけである。ここは、伊藤倉之助さんの持ち山で、美しい松林の旧道に面した所に窯は作られていた。五、六軒の農家の共同管理で、昭和九年頃から、三十年代の前半まで利用されていた。組合員以外にも賃貸していた。私の家でもこの窯で毎年のように自家用の炭を焼いた。炭は当時暖房用だけでなく、養蚕用にも必要だった。

   


 炭を焼くには、前の人が炭を取り出すと同時に、窯の熱が冷めない内に、次の人が薪を入れる、これがコツなのである。準備しておいた薪を入口まで運ぶ人、窯の中に入り薪を詰める人と、家族数人で心を一つにして働く協働作業だった。
 薪を詰める手順としては、地面にモヤと呼んでいた粗朶を並べ、その上に薪を縦に奥より並べてくる。天井部分の隙間にはナグリと言う太い粗朶を押し込むのだった。私は薪を運ぶだけの手伝いで、窯の中に入った経験はないが中は熱く、現在のように防塵服はなく、古い印半纏に手拭いで頬かぶりし、鼻や口を覆うだけの姿が多かった。炭の粉で体中真っ黒になり、汗を拭き拭き、何回も出て来る父の姿は異様であった。詰めてから火をつけ、半日位見守り、完全に燃えついたら入口を閉じる。そして二日前後たった頃、煙突の口を閉じるが、タイミングを間違えると燃えすぎてしまったり、生焼けで、パチパチ火の子が飛び跳ねる不良品になったりするので作業は真剣そのものだった。父は白い煙が青くなったら良いのだと云っていた。閉じる時間が昼間なら良いが、夜になったりすると大変で、父は寒い夜中、窯場迄何回となく見に行ったりした。
 さて、炭を取り出すのは、その三日後である。炭焼きの煙は農山村の風景に情緒を与えるが、当事者にはこのように大変な作業であった。
 絵の手前に見える苗床のある所は、昭和十年前後、飯田磯吉さんが中心となり作った、野菜苗育成所であった。これは成功したとは言えなかったようだが、当時としては新しい農村作りの一つの萌芽であったと思われる。

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   古い由木への散歩道

            その11 永林寺の故事来歴 
   
 永林寺(曹洞宗 禅宗)は、寺になる前は由木城と呼ばれ、滝山城主だった大石定久公が、家督を相続するまでの城でした。
 定久公が成長し、滝山城へ入るときに、支城であった由木城を叔父である「一種長純大和尚(俗名が大石氏)」に譲られ、天文元年(1523年)3月、寺にされました。当時の寺の面積は約30万坪でしたから、「下柚木、下柚木2・3丁目、由木めぐみ野、南陽台、越野を併せた面積」よりも大きい寺領を持っていました。
 寺が作られた当時は、道俊院心月閣(どうしゅんいんげつかく)と呼ばれていました。これは、定久公が出家された折、真月斎道俊(しんげつさいどうしゅん)と名乗り、これを寺名にいただいたものでした。
 天文15年(1546年)、定久公の養子となった八王子城主・北条氏照公(大石源三公)により、北条家家来の横地監物、中山解由(かげゆ)を建築奉行として、七堂伽藍(しちどうがらん)の完備した大禅寺を建立し、僧侶千名による江湖会(ごうこえ)を営み、永麟(鮮)寺と改名した。これは北条家の家紋「三鱗(さんうろこ)」より名付けたものだそうです。
 この後、徳川家の勢力下に入り、天正19年(1583年)徳川家康公が永麟寺に来られたときに、「朱印十石、公卿格式拾万石を授けられ大名寺院」となりました。また、その折り「名におえる、永き林なり」とほめられ、ここから永林寺と改名しました。しかしこの改名は家康公が北条家の勢力下にあった寺名を嫌らったからとも云われ、この折に寺領を3万3千百65坪に決めたそうです。
 天正15年(1587年)、後陽成(ごようぜい)天皇より勅願寺の綸旨(りんじ)を賜り、護国禅寺となりました。さらにその後も高い格式をいただき、当地方の格地本寺寺院(当時末寺十八ケ寺、廃仏毀釈により十ケ寺)となり現在に至っております。

  大石家史の概略

 大石家が歴史的に隆盛となり始めた時代は14世紀初めでした。大石氏の出自は、信濃の国大石郷(長野県南佐久郡佐久穂町八郡大石)の住人と云われており、その祖は源義仲(平安末期の信濃源氏の武将・木曾義仲の名で知られる)とされています。
 関東管領・山内上杉憲実(越後の上杉謙信の先祖で、幕府の命により関東一円の武士を掌握しながら支配地域の守護や地頭も管理していた)の重臣である大石氏7代目・遠江信重が、延文元年(1356年)に「入間、多摩両郡の内から13郷」を賜り、武蔵目代(国主に代わる私的代官)後に、武蔵野守護代(赴任市内守護に代わって実務を行なう代官)に任命され多摩の地を治めるようになった。大石氏は、この守護代職を三代(信重、憲重、憲儀)にわたり、永享11年(1419年)4月まで引き継ぎました。
 14世紀後半の関東地方は、南北朝の時代で、鎌倉公方と昔から領地を掌握する諸豪族とが対立する場合も多く、その政治を取り巻く状況は複雑を極めていました。また、一揆も多く、中でも武州南一揆は船木田荘を有名無実の荘園にしてしまいました。大石氏は、この一揆を利用して自立の体制を作り出していった経緯が伺えます。
 信重以降の大石氏は、主な居城を関東地方西端に築きました。八代目・大石憲重は八幡城(埼玉県児玉雉ケ丘)、九代目・大石重仲は大石館(飯能市中居)、十代目・大石房重は八幡城、十一代目・大石顕重は高月城、松本城(八王子)と進出しました。
 そして、十二代目・大石定重のときに、加住丘陵の高月城から滝山(現在の滝山城址公園)に城を移して、武蔵国滝山城(共に城下町も)を建設し、定重の子・定久(大石源左衛門尉定久)に城主を継がせました。
 このように勢力をはった大石氏も、この頃に台頭してきた小田原の北条氏(後北条)の力を無視できなくなりました。
 定久は、北条家次男・北条氏照を大石源三と名を改め、大石家の養子として迎い入れ、自分は多摩郡戸倉(あきる野市五日市戸倉)に隠棲しました。
 隠退後の定久は入道し、真月斎道俊となりました。その後の大石氏は武蔵豪族の権威を保てず、北条氏の傘下に属し、永林寺伝によると天文18年(1549年)定久は死寂し、猿丸山(野猿峠)に葬られたと伝わっております。
 世は戦国時代を迎えていました。氏照は居城となっていた滝山城で武田信玄と対峙しましたが、「滝は落ちるから縁起が悪い」のを忌んで、旧八王子村に八王子城を造って居城とし、城下町も移しました。
 天正18年(1590年)に豊臣秀吉の関東平定(小田原攻め)の際、八王子城は城主不在のまま勇戦するも八王子城は落城。小田原城は7月9日に降伏し、7月11日に氏照は兄と共に自刃しました。その後、徳川家領地から徳川家直轄地となりました。
 小田原の役により後北条氏が没落すると、大石定久の実子大石定仲と養子大石定勝は徳川氏に仕え、八王子千人同心としてその子孫は明治時代を迎えたそうです。

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