野猿街道の今昔を描く その11
「炭焼き窯と野菜苗育成所」
著者 橋本豊治
現在の南陽台入口から、数メートル入った所に炭焼き窯があった。以前の面影は西側の畑と土手と旧道の一部に残されているだけである。ここは、伊藤倉之助さんの持ち山で、美しい松林の旧道に面した所に窯は作られていた。五、六軒の農家の共同管理で、昭和九年頃から、三十年代の前半まで利用されていた。組合員以外にも賃貸していた。私の家でもこの窯で毎年のように自家用の炭を焼いた。炭は当時暖房用だけでなく、養蚕用にも必要だった。
炭を焼くには、前の人が炭を取り出すと同時に、窯の熱が冷めない内に、次の人が薪を入れる、これがコツなのである。準備しておいた薪を入口まで運ぶ人、窯の中に入り薪を詰める人と、家族数人で心を一つにして働く協働作業だった。
薪を詰める手順としては、地面にモヤと呼んでいた粗朶を並べ、その上に薪を縦に奥より並べてくる。天井部分の隙間にはナグリと言う太い粗朶を押し込むのだった。私は薪を運ぶだけの手伝いで、窯の中に入った経験はないが中は熱く、現在のように防塵服はなく、古い印半纏に手拭いで頬かぶりし、鼻や口を覆うだけの姿が多かった。炭の粉で体中真っ黒になり、汗を拭き拭き、何回も出て来る父の姿は異様であった。詰めてから火をつけ、半日位見守り、完全に燃えついたら入口を閉じる。そして二日前後たった頃、煙突の口を閉じるが、タイミングを間違えると燃えすぎてしまったり、生焼けで、パチパチ火の子が飛び跳ねる不良品になったりするので作業は真剣そのものだった。父は白い煙が青くなったら良いのだと云っていた。閉じる時間が昼間なら良いが、夜になったりすると大変で、父は寒い夜中、窯場迄何回となく見に行ったりした。
さて、炭を取り出すのは、その三日後である。炭焼きの煙は農山村の風景に情緒を与えるが、当事者にはこのように大変な作業であった。
絵の手前に見える苗床のある所は、昭和十年前後、飯田磯吉さんが中心となり作った、野菜苗育成所であった。これは成功したとは言えなかったようだが、当時としては新しい農村作りの一つの萌芽であったと思われる。