web版 第23-9号(No98)

   野猿街道の今昔を描く

            野猿街道の今昔を描く その12
                   「峠の砂山」 
                 著者 橋本豊治
     
  別に砂の山があったのではないが、峠を中心に七、八ケ所、長沼を含めると十数ケ所、磨き砂を掘った砂穴を総称して砂山と呼んでいた。その砂は最初、水車等で精米用に早づき粉として利用されたとのことであった。峠の砂は荒く、質が落ち精麦用が主で、精米用の上質の砂は甲州から来ていたとのことである。後に、砂を利用すると米麦に傷が残り、また人体に有害だとして使用が禁止され、家庭用食器類の洗剤として活用されるようになった。
  磨き砂の掘り出しは、大正期に最初、長沼の人が始め、下柚木の人がそれに続き下柚木面の山を掘り始めたとのことである。田倉国義、田倉政一、内田清三郎、伊藤米蔵、伊藤三次郎、長沼の菱山千代吉、北野の鈴木義高さんらがこの作業を行ったと言われている。
  掘った穴の中にコウモリが住みついたので、私も子供の頃よく遊びに行ったりし、作業をよく見たものだった。また、自家用の洗剤として砂を貰って来たりもした。小型の鶴嘴(つるはし)で砂の層を掘り、軽籠(かるご)と言われる直径五十センチ位の笊(ざる)を天秤棒の両端につけ外に運び出した(リヤカー利用者もいた)。莚(むしろ)の上で干し、乾いたら板囲いの小屋の中で二尺位の大石を利用し、ぐりぐり細かく砕き、後、篩(ふるい)で分別し、俵に詰めるのであるが、大変な重労働であった。しかし当時としては貴重な現金収入であった。穴の掘り方もその人の性質が反映され、形よく掘っていた穴と雑な穴があった。
  現在は過激派が利用するといけないとの理由で、長沼面の入口は閉じられてしまっている。

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   「早づき粉」を調べてみました!

img 玄米を水車で搗く精米のことが判らないので、昔を知る近所の方にお聞きしました。
  早づき粉(磨き粉)を玄米に混ぜて搗くと、磨き粉の研磨作用によって早く精米(白米)が仕上がるのだそうです。早づき粉はヌカに残りますが、このヌカは肥料にするため問題はないそうです。
  近隣の農家が水車で精米することは、昭和の始め頃までで、その後は現在の電動・精米方式が主流になったそうです。でも近所の大栗川べりには2台の水車があって、昭和20年代始めまで精米していました。
  大町堰の水車(信号中山入口の東側辺り)と佐森堰(現在の大片瀬公園辺り)の水車を付近の農家の方々が使い、使った人は備付け帳面へ記入する慣わしでした。水車の稼動は、水田に水を送り込まない期間で、秋の彼岸から春の彼岸まででした。
  峠の磨き砂は、食器類の磨き粉に適し、どこの家庭でも昭和28・9年頃まで使っていたそうで、安くて重宝だったとか。

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