野猿街道の今昔を描く その12
「峠の砂山」
著者 橋本豊治
別に砂の山があったのではないが、峠を中心に七、八ケ所、長沼を含めると十数ケ所、磨き砂を掘った砂穴を総称して砂山と呼んでいた。その砂は最初、水車等で精米用に早づき粉として利用されたとのことであった。峠の砂は荒く、質が落ち精麦用が主で、精米用の上質の砂は甲州から来ていたとのことである。後に、砂を利用すると米麦に傷が残り、また人体に有害だとして使用が禁止され、家庭用食器類の洗剤として活用されるようになった。
磨き砂の掘り出しは、大正期に最初、長沼の人が始め、下柚木の人がそれに続き下柚木面の山を掘り始めたとのことである。田倉国義、田倉政一、内田清三郎、伊藤米蔵、伊藤三次郎、長沼の菱山千代吉、北野の鈴木義高さんらがこの作業を行ったと言われている。
掘った穴の中にコウモリが住みついたので、私も子供の頃よく遊びに行ったりし、作業をよく見たものだった。また、自家用の洗剤として砂を貰って来たりもした。小型の鶴嘴(つるはし)で砂の層を掘り、軽籠(かるご)と言われる直径五十センチ位の笊(ざる)を天秤棒の両端につけ外に運び出した(リヤカー利用者もいた)。莚(むしろ)の上で干し、乾いたら板囲いの小屋の中で二尺位の大石を利用し、ぐりぐり細かく砕き、後、篩(ふるい)で分別し、俵に詰めるのであるが、大変な重労働であった。しかし当時としては貴重な現金収入であった。穴の掘り方もその人の性質が反映され、形よく掘っていた穴と雑な穴があった。
現在は過激派が利用するといけないとの理由で、長沼面の入口は閉じられてしまっている。