web版 第23-10号(No99)

   野猿街道の今昔を描く

            野猿街道の今昔を描く その13
               「鎌田鳥山入口付近」 
                 著者 橋本豊治
     
この谷戸を五輪谷戸と言っている。

      

  語源は武蔵名勝図絵に、山頂に大石定久公の五輪の碑石があったが、壊れて谷へ落ちたので、この名があると言う。今は切られて無いが、曾ては右手上に大きな松があった。一説には大石定久公が八王子城落城の煙を見て切腹した場所と言われ、一般には大石松と呼ばれて、別名を焼場松とも呼んでいた。昭和の初期まで、由木村内の結核や伝染病で死んだ人は、この場所で、薪に石油をかけ火葬にされたとのことであった。これらは役場の衛生係、衛生組合長、駐在所の巡査と親族が立会い、夕方火葬したので、下柚木の人はもとより、打越の人もその火が見えたとのことである。
  入口の所は今は平らになっているが、以前は窪地の桑畑であったが、谷戸の水が溜り長い間池が出来ていた。この池は冷たい水で濁っていたが、私は夏の日には何回か一級下の内田保君と泳いだ思い出がある。  
  鎌田鳥山の下には、長沼の菱山千代吉さんの磨き砂を掘った砂穴が、大石松の下には、下柚木内田清三郎所有の砂穴があり、伊藤米藏さんが主に掘っていた。この砂穴は、戦争末期、陸軍補給省の) 管理下に入り、軍事物資を隠す為に利用された。その為に兵隊が数百人位来ていた。兵隊達は永林寺や民家、穴の近くに天幕を張り、分散宿泊していた。足立区に嫁ぎ、先年亡くなった姉、歌子の主人小宮秋太郎もこの時兵隊の一員としてこの地に来ていた。
  兵隊達は洗濯などを近くの農家の井戸を利用させて貰っていたので、農家の人達と親しくなっていった。義兄は私の家に来たりして姉と知り合い、戦後結婚したのだった。終戦時、私は溜り水の池の辺で何を燃やしたのか解らないが、多くの物が燃やされているのを見ている。
絵の左下の家は佐藤留七さんの家。戦時中は由木の青年学校の校長を、戦後は新制中学校の校長をしていた人で、昭和三十年代前半まで住んでいた。

       

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