web版 第23-11号(No100)

   野猿街道の今昔を描く

            野猿街道の今昔を描く その14
                   「野猿峠」 
                 著者 橋本豊治
     
 私の小さい時に、老人達は猿丸峠と呼び、一般的には野猿峠と言っていた。

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  昭和十九年から二十年にかけ、陸軍省名でどういう事情からか真白な角柱に「甲峠 (かぶととうげ)」と墨黒々と書き、その柱を建てたこともあった『武蔵名勝図会』には猿丸嶺・中丸嶺・猿山嶺と呼んでいた、とあり、又、大石源左衛門の鎧を埋めて、石碑を建て秩父の武甲山にならって甲山嶺と呼んだが、甲の字が申の字に間違って、さる山というようになったと書いてある。そして、後で猿の字を書くようになったとある。永林寺史の古文書には猿丸の文字が明確に記されている。一説には百人一首に出てくる歌人、猿丸太夫が来て名づけたとか、永林寺からみて羊申の方角にあるので申丸と言うとか、山全体が甲に似ているので甲峠と言うとか、いろいろな説がある。昭和三年の道路改修記念碑には、猿丸峠の名が東京府知事塚原義名で記されている。
  野猿峠の名称は、昭和四、五年に鎌田鳥山と京王電鉄が野猿峠ハイキングコース(高幡不動ー野猿峠ー御殿峠の尾根道)を開き宣伝したのが始まりで、以後定着し現在に至っている。
  現在、左側の中山に入る旧道にある桜の大木は、昭和十四年、皇紀紀元二千六百年記念として植えられたものである。
  舗道の片隅にわすれられたようにあるコンクリートの水飲み場は、馬力引きの組合が作ったもので峠の通行者は皆この恩恵を受けたものだった。水は左上にある磨き砂を取った砂穴からの湧水を利用していた。 (峠の高さ百六十メートル)
  峠より下柚木側に少し下った所の空地(今の中山方面への分岐点)に、昭和十九年から二十一年頃まで、朝鮮人の人達の飯場があった。砂穴等が陸軍補給省の物資貯蔵所として利用されると同時に、彼らは他に数多くの穴を掘る為に働いた。多い時には三十人以上の人がいた様子であった。
  食生活の違いでニンニク特有の香りが漂っていたのが思い出される。彼らの中の一人に大山さんと言う人がいた。大変親しみの持てる人で、よく実家へ野菜等を買いに来て、母と世間話をしていた。内容は覚えていないが、大山さんはいろいろ苦労した人のようだった。日本人の奥さんと結婚し、飯場が解体した後も峠に住み、小さな靴の修理店を開いたが、長く続かず閉じてしまった。その後何回か市内で顔を見たりしたが、その後どうしたのか、その消息が知りたいものである。

[お詫び];先月号(紙面)の絵は、「秋日(鎌田鳥山入口付近)」を掲載すべきところ、今月号の絵を掲載するミスがありました。謹んでお詫びと訂正をいたします。なお、「秋日(鎌田鳥山入口付近)」の絵はホームページにて掲載、書籍は由木中央市民センター図書館にありますのでご覧願います。

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