web版 第23-11号(No100)

   古い由木への散歩道

            古い由木への散歩道 その13
                   「御殿峠」 
     
 国道16号線の鑓水にある御殿峠は、200年前には杉山峠と呼ばれていました。御殿峠と呼ばれ始めたのは明治になってかららしいが、その由来は「機家が立派な別荘を建てた」、「藍原孝遠の館跡があった・注1」、「按察使(あぜち)大納言の御殿があった・注2」とか、「茶屋の屋根の形が御殿のような感じだった」などとはっきりしません。
(注1;関東武士団・横山党の一族。)
(注2;按察使とは奈良時代に設置された地方行政を監督する官職で明治の頃まであった。)
御殿峠の標高は183mで、大塚山(道了堂)が213m、七国峠223mだそうです。
 丘陵尾根道は、大塚山から御殿峠そして七国峠へと続いていた筈ですが、八王子バイパスの建設と国道16号の切り通しで分断され、明確には存在していません。
photo 昔の御殿峠の位置は日本閣の敷地内だったそうですが、土地開発によって削られ判りません。現在、御殿峠の位置を示すものとして、国道16号線の信号に御殿峠と表示されています。この信号の西側に山野美容芸術短大と老人ホーム・多摩養育園があります。短大の校庭は由木地区消防操法大会の応援で毎年6月初旬に伺っておりますが、全面をコンクリートで固めた今風?のグランドです。しかし周囲の景色は深い緑に囲まれた静かな良い環境です。
 「武蔵名勝図会」に、御殿峠を描写して「往古は嶺上に杉の木立ある故その名あり」と記されるように木々豊かな丘陵でした。この風景を物語る証として次の歴史があります。
 徳川の世になって江戸と多摩一帯は天領(徳川幕府の直轄地)となり旗本の年貢地となりました。そのなかでも鑓水は丘陵一帯には沢山の松・杉・桧が繁っており、江戸から近場の木材供給源として大切にされていました。幕末の頃、黒船襲来のため品川沖に造られたお台場の建設には、鑓水から伐り出された木材が相模川を経て運ばれたそうです。 
 永禄11年(1568)、武田信玄が北条氏照がこもる滝山城(滝山城址)を攻めた後、小田原城へ目指し進軍した鎌倉古道(杉山峠越え)が残っているとか。さらに天正18年(1580)、豊臣秀吉の小田原城攻めのときに、八王子城を攻める軍団がこの杉山峠を越えて行ったとも伝えられています。 
 それよりかなり前の頃(746年)、大陸からの渡来人(朝鮮から移住者)が須恵器(皿などの食器)や瓦を焼いたとの記録があるそうです。縄文時代の土器は、薪を積み上げて焼く野焼きのため、焼成温度(800〜900℃)が低くもろさのある分厚い焼き物でした。
 これに対し渡来人は横穴方式の焼き方で焼成温度(約1100℃)が高く、青灰色の硬い焼き物が作られていました。当時の技術は、中国→朝鮮→日本と伝来しています。
 御殿峠の瓦は武蔵国分寺建設のために造られ、この辺では最大の瓦生産地だった。当時の焼成窯跡や瓦・食器の破片の遺跡が確認されています。なぜ遠い昔の御殿峠に焼き物工場があったのか不思議と思いました。推測ですがこの地に良質の粘土が産出し、燃料となる薪が豊富に伐り出せたからでしょう。
 武蔵国分寺で使われた各種の瓦は、武蔵国分寺資料館(JR武蔵国分寺駅から徒歩15分)へ行くと見られます。武蔵国分寺は七重の塔もある大きな寺院でしたから大勢の工人によって沢山の瓦が造られ、牛の背か荷車で運ばれたろうと想像されます。当時としたらかなりの賑わいがあったことでしょう。
 御殿峠で、明治天皇がウサギ狩りをされたそうです。今年の9月初旬、嫁入り谷戸から絹の道へ出ようとしたとき山道で野ウサギを発見しました。今でも容易に見つかる位ですから百年も前なら鷹狩でキジやウサギなどが沢山獲れたことでしょう。
 少々不謹慎かも知れませんが、NHK番組「ブラタモリ」を見ていたときの話しです。殿様の鷹狩りを浜離宮の池で行いカモを捕るとき、捕獲ゼロではお供が困るからと、頃合いを見て木立の陰から「他所で捕獲したカモを放った」そうです。皇居から遠い鑓水まで狩りに遠征し収穫ゼロでは格好がつかないからと、連絡を受けた村人が頃合いを計ってキジやウサギを放ったかも知れません。
 御殿峠の辺には相模川の石があると聞いたことがあります。そのナゾを調べると太古の時代(6千万年〜百万年前)、多摩丘陵の一帯は入り江の多い海岸地帯でした。一方、多摩川と相模川は上流から砂を運び大きな三角州(扇状地)が拡がっていました。後に陸起運動が起こって土地が盛り上がり、河川は古い三角州を浸食して前面に新しい三角州を形成しました。この古い方の三角州が現在の多摩丘陵と言われています。このようなことから相模川の石(丹沢の)が御殿峠にあるのだそうです。  

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   多摩テック跡地利用のその後

 多摩テックのシンボルだった観覧車が消え、なんとなく淋しい感じですね。

     photo ありし日の姿

 多摩テックはホンダ技研工業・子会社の所有物でしたが、運営難から売りに出され明治大学が取得し、体育施設の建設計画が発表されました。近隣への説明会ではグランド4面、建物2棟、宿泊者800〜1500人、緑は残すという内容でした。ところで平山城址公園の東側増設部分が完成し更に良い散策地となりました。来年には、散歩途中に明大ラクビー部の練習が見えるのかな?

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発行 下柚木町会  編集 下柚木町会広報部

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