野猿街道の今昔を描く |
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野猿街道の今昔を描く その15
「峠道を車で数多く越えた人、内田右十郎氏」
著者 橋本豊治
野猿峠の旧道、新道を各種自動車で数多く越えた人としては、内田さんが第一人者だと思う。明治三十五年下柚木に生まれ、大正十五年に運転免許を取得した。そして十月から馬力屋さん達が作った由木合同運輸の運転手として旧道を走ったのである。
三年後、昭和初めに結成された南多摩酪農組合の牛乳を松木から東京の大森へ運び、昭和七年九月からは牛乳販売購買組合(井草甫三郎会長)の車を運転し、子安の明治牛乳(南多摩牛乳処理所)まで運んだ。
更にその後、由木乗合バスに二年、昭和十四年から京王バスの運転手、市役所へも少し勤め、後八王子交通タクシー(三十九年、六十二歳まで)の運転に従事したとのことである。
峠の旧道は砂利道で道幅は九尺しかなく、難所は今の住友銀行辺りの急坂で、内田さんは何時もここで難儀したとのこと。旧野猿街道を走る時には毎回寺町の交番(八王子駅西の陸橋の角の所にあった)に、口頭だが許可を取る必要があった。又、大塚、東中野へ日野方面から入るには、高幡の交番に届けたが、交番の巡査から「静かに走らせないと棚の物が落ちて困る」と道沿いの家から苦情が来ているから、静かに走るようにとよく言われたそうだ。
内田さんが運搬した品物は、肥料、東中野松岡酒造の酒、莚、磨き砂等が多かったとのこと。しかし、大福帳的経営で三年位で倒産してしまった。その後の京王バス時代、戦争末期の木炭自動車の運転では、峠道の運転は難しく、下手をすると途中で止まってしまう。そこで、地形を知り慣れている内田さんに行ってくれと、ほとんど由木線中心の運転だったとのこと。
その昔、由木小学校の門の前は少し坂道になっていた。私はよくバスが門の前に止まっているのを見た記憶がある。退避用と同時にエンジンが掛からない時には、峠と逆方面へ坂を利用して走り、エンジンを掛けたこともしばしばだったと内田さんは話していた。
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