web版 第24-1号(No102)

   古い由木への散歩道

            古い由木への散歩道 その15
            八王子の歴史遺産「絹の道」@ 
     
 八王子の歴史遺産「絹の道」を3回に分け紹介しようと予定します。次月の鑓水絹商人の物語、次々月の道了堂等の歴史を記すのは、養蚕業の事情や時代背景を知るとより理解が深くなるからと考えたからです。

●八王子「絹の道」の命名

 シルクロード(絹の道)とは、中国特産の絹などを7千kmの道のりで古代ペルシャやローマ帝国へ運んだ道を指し、この長大な輸送路をドイツの地理学者リヒトホーフェンがシルクロードと名付けました。八王子市の「絹の道」の命名は、地元の文化・歴史の研究活動に尽力された市内・楢原町生まれの橋本義夫氏が昭和32年に命名しました。その後、桑都・八王子の歴史遺産として「絹の道」を保存し、「絹の道資料館」を作り、更には「道了堂跡」を整備の上、大塚山公園とするなどの活動が始まりました。
  絹とは、生糸を織ったものが「絹」(絹織物)と称され、和製・絹の道を経て運搬されたものはマユから紡いだ「生糸」でした。シルクロードでキャラバン隊が7千kmの道のりを運んだものは「絹織物」です。多分、橋本義夫氏は、「生糸の道」では言葉のゴロが良くないため、シルクロードにあやかって「絹の道」と命名したと思われます。
 鑓水の「絹の道」は、文化庁選定の「歴史の道百選」に「浜街道―鑓水峠越」の名称を用い27番目に登録されており、全国に名高い「日光杉並木街道」「東海街道ー箱根旧街道」などと並び、東京都から、ただ一つ選出された「地域の誇れる歴史街道」なのです。   

●養蚕業の始まり

  絹の生産は、紀元前三千年頃に中国で始まり、製法が中国から日本へ伝わったのは、弥生時代(紀元前の千年〜三百年頃)頃とされています。当時の和製生糸は品質が良くないため、京の西陣織りなどの高級織物は中国から生糸を輸入していました。鎖国時代(1639年〜)に入った寛永年間頃から和製生糸の改良が進み、中国産と同じレベルの品質に追いついたのが江戸中期でした。
 江戸期の生糸は本州の各地で生産されていますが、その多くは奥州と上州だったそうです。関東の代表的な絹織物は桐生織物(関東の西陣と称され関東機織業の核)、八王子織物、伊勢崎銘仙、秩父銘仙、結城紬でした。それらを支えた養蚕は、桐生、藤岡、秩父、八王子近郷などの農家の副業でした。 
 鑓水村の養蚕が近郷の村々に較べ盛んだった訳は、他の村より平地が少なく多くの丘陵に囲まれているからでした。また桑木は平地ばかりでなく丘陵斜面へも容易に植えられるため、少ない米収入を助ける養蚕は貴重な収入源でした。このような背景から、鑓水村の養蚕は鑓水絹商人が誕生以前の100年位も前から始まっていました。

●生糸の輸出

 生糸の消費先は、運搬の関係から絹織物の近郷養蚕が一般的でした。江戸中期頃までの生糸輸出は、貿易窓口が唯一だった長崎からでしたから、関東からの生糸出荷は遠すぎて無かったと思われます。時代が過ぎ、幕末に至って黒船襲来や諸外国の圧力に耐え切れず、新しい条約を諸外国と締結し、輸出入の窓口港を従来の長崎に加え横浜・函館の三港を開港しました。幕府は同時に「五品江戸回送令(ごひんえどかいそうれい)[注釈1]」も発令しました。当時の輸出品の主力は生糸で、84〜95%も占めていました。その頃の日本産生糸の輸出好調の背景には、西欧・養蚕業に「微粒子病」という伝染病が大流行し、更に陸続きの東南アジア・中国へも微粒子病が飛び火し、世界中に大きな被害が出ている時期でした。ですから島国のため病気に罹らなかった日本産は売れに売れた訳です。
 さて、時代の流れからやむを得ず三つの港を開港し、江戸商人の要望で同じ頃に作られた「五品江戸回送令」が、従来の流通機構を無視した在郷の商人(地方の仲買人)と外国商社に評判が悪く、江戸商人を通さず「開港市場へ直接に卸す」ようになっていきました。

●複数あった生糸の運搬ルート

 横浜港へ直接に生糸を運ぶには楽な道のりが良い訳ですから、当時の絹の道は幾つもあり、@片倉から杉山峠(御殿峠)を越えて厚木に出る厚木街道ルート、A小比企から七国峠を通って津久井に出る津久井街道ルート、B上椚田から町田の大戸を通って津久井に出る大戸往還ルート、C難所である大塚山の峠を越えて鑓水・御殿橋経由の浜街道(浜道ともいう)ルートの四つがありました。
 鑓水商人の買い集めた生糸が、なぜ労力の多い大塚峠(横山町→片倉→大塚山)をわざわざ越えて鑓水商人の蔵へ運んだのでしょうか。推測ですが、利口な鑓水絹商人は情報網を駆使し、浜相場をはかってから浜街道(鑓水→町田→今宿→芝生経由)で横浜港へ運んでいたと思われます。この推測のひとつは、最盛期の鑓水村には民家が80軒程度なのに蔵が70棟以上もあったからです。
 日本のシルクロードと呼ばれる輸出生糸の街道は、八王子の絹の道以外にもあります。上州の生糸は、群馬県の下仁田から本庄までの中仙道・脇道(別名・姫街道)を経由した江戸へ陸送の「陸上シルクロード」。さらには、高崎の倉賀野河岸から船に積み利根川→関宿→江戸川経由の三泊で江戸へ運ぶ「水上シルクロード」がありました。
 ちなみに八王子・絹の道往来が盛んな頃、鑓水絹商人が扱った生糸量ですが、記録は有りませんが日本全体の1〜2%で、多摩地区全体では10〜20%程度かも知れません。

[注釈1]五品江戸回送令;幕末の頃、黒船襲来による日米修好通商条約や五か国条約の締結によって、1859年(安政6年)から函館・横浜・長崎港の貿易が開始され、港に居留する外国人と日本の商人との間で直接に取引きが始まった。この自由貿易に対応するため、江戸の商人らから要望を受けた江戸幕府は、1860年に「生糸・雑穀・水油・蝋・呉服」の5品目については、必ず江戸の問屋を経由する輸出新法―五品江戸回送令―を発令した。しかし列強各国からこの法令は「自由貿易を妨げる」と強い反発を受けました。また、在郷商人らも不平等な法令に反発し、依然として港へ直接廻送を続けたため、法令の効果はあがりませんでした。このような開国施策の反動が攘夷鎖国の思想伝播を促進し、結果として王政復古の名のもとに始まった戊辰戦争から明治政府誕生へと向かった訳です。

 参考文献;・いちょう塾2011-11-19「『絹の道』と『水上シルクロード』を考える」講師 専修大学教授 新井勝紘。
・浜街道『絹の道のはなし』 馬場喜信 著。

戻る

ソースネクスト
パソコンを守る
ウイルスセキュリティZERO

大塚製薬の通販【オオツカ・プラスワン】

さわやかダイズ飲料


発行 下柚木町会  編集 下柚木町会広報部

中高年の方がパソコン体験できる場所 インターネットルーム ハタノ

inserted by FC2 system