web版 第24-2号(No103)

   野猿街道の今昔を描く

            野猿街道の今昔を描く その17
            「峠道を走った自動車について」 
                 著者 橋本豊治
     
 旧道を最初に走った村内の自動車としては、東中野の大坂屋酒店の三、四人乗りの小型自動車ではないかと言われている。運転手は水戸清さんで当時豆自動車と呼ばれていた。自動車には病人か怪我人位しか乗らなかったそうだ。

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  次は、由木共同運輸のフォードのトラック。この会社は車時代の先駆として、馬車で運送業をしていた人達が集まって、大正十五年十一月に設立したとのこと。越野の富沢国治、東中野の細谷金藏、加藤藏次、上柚木の伊藤定治さん達で、運転手は内田右十郎さん。しかし、道路事情と経営面での未熟さで時を得ず三年位で解散してしまった。
  峠道にバスが通るようになったのは、昭和初めであり道路改修が完成した後で、昭和四年七月に中山の石井善藏さんが創立した由木乗合自動車会社のバスである。起点は横山町の郵便局で、終点は由木小学校前迄であった。車庫は峠の中山方面への分かれ道の所にあったり、下柚木の金毘羅山の裾にあったりした。このバスは、昭和十二年京王バスに合併するまで走っていた。
  社長の石井さんは、当時としてはモダンな服装で革靴姿だったので、ハイカラ善さんと呼ばれ村人たちに親しまれていた。
  運転手は水戸清さんと清水林三さんだったと聞いている。清水さんは私の知人の伊藤輝雄さんの父親であり、母親のフジさんは大変な美人であった。フジさんが大橋屋の東の田圃で田植えを手伝っているのを清水さんが運転中に見初めて、運転を誤り堀に車を落としてしまい大騒ぎしたことがあったとか、私の母親がよく話していた。

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