web版 第24-2号(No103)

   古い由木への散歩道

            古い由木への散歩道 その16
            八王子の歴史遺産「絹の道」A 
     
今回は八王子の織物業と鑓水絹商人が誕生した背景および活躍までの経緯を要約し述べます。

●八王子織物業のはじまり
江戸時代の社会・文化などや諸国の特産物を列挙し、江戸時代前期(1645)に刊行された『毛吹草(けふきくさ)』の八王子地域覧に「滝山、横山紬島」の名前がみえるため、当時の八王子には古くから織物業が成立していました。また、寛永年間(1624〜43年)には「横山之商人衆」と呼ばれる八王子商人が八王子を中心とする周辺市場を回り織物の集荷にあたっており、当初の売買は木綿と絹の両方でしたが、主力は綿織物で、絹は貴族、殿様、金持ちなどの着物のため少なかったようです。

●江戸時代の八王子織物の生産と流通  
  八王子や青梅の織物業は、農業だけでは生活できない農民の副業(農間余業)として始まり、めいめいが思い思いに自家製の織物を市に売り出し、いくばくかの現金を手に入れていました。しかし、あいつぐ飢饉や物価変動の波を受け、農民の中には土地を減らす者と、農地を買う者といった農村の分解が進み、次第に小作方式が芽生え始めました。一方で、都市部人口が急増し絹織物の需要も増大の傾向となりました。
江戸時代も中期ごろになると、「農家の主体性に任せたバラバラな絹の品質」に対し、買い手側であった越後屋や白木屋などの江戸の大呉服問屋から不揃い品質の改善要望が出されました。
このような事態への対策として、例えば、恩方の地主・草木家では原料糸を小作人へ貸し与え、その代わりに製品のすべてを納めさせる方式(今も賃機という)をとりました。この方式は次第に増え、天保10年(1839)頃になると三戸に一戸の割合に達しました。当時の賃機農民のほとんどが農地三反歩以下の零細農民で、農閑期は賃機専門だったようです。

●鑓水商人の誕生と発展
元禄(1688)〜享保期(1736)になると、江戸町民の縞柄の絹織物に対する嗜好が増大し、八王子周辺もその影響から絹織物生産は『縞物』へ移っていきました。この縞柄の絹織物を扱う八王子・横山宿の市は『縞市(しまいち)』と呼ばれ、次第に八王子織物の重要な取引場となりました。
さて、古い書き物によりますと、鑓水商人は明治前(1868)の、かなり以前から縞市へ出入りしていたと紹介されています。水田より丘陵が多い鑓水では養蚕がかなり普及しており、村で作った絹を鑓水商人が縞市へ持ち込み売っていました。その生糸と織物の売買は、毎月4の付く日に行われる横山宿(現在の横山町)の縞市でした。
具体的な事例を言うと、鑓水商人が持ち込んだ生糸を津久井の機屋が買い、織物にして、再び縞市へ持ち込んでいたものです。 
黒船襲来(1853)の頃ですが、フランスやイタリヤなどの欧州主力・養蚕業に「微粒子病(注1)」が大流行し、海外の養蚕業は壊滅的な打撃を蒙っていました。 
ところが、この世界的な微粒子病の流行は鎖国の島国日本に、まだ来ていなかったため西欧は日本の生糸に目を付けた訳です。                   
一方、日本では世界的に絹価格が高騰し出した安政5年(1858)に、徳川幕府が従来とってきた鎖国政策を放棄し、アメリカ合衆国をはじめとする西欧諸国と通商条約を結びました。この条約にもとづき横浜が開港すると、国内の生糸の輸出は飛躍的に増大し、「八王子糸」という銘柄の生糸を産出する八王子とその近郷養蚕に大きな影響を与え始めました。
もともと八王子生糸は国内の織物用に消費されていた訳ですが、横浜開港を契機として過半が横浜の貿易へ出回るようになり、江戸に近い関係から値の動きも激しく、次第に高値となって行きました。高騰した生糸は多くの日数をかけて絹を織るよりも、そのままの生糸で売るほうが利益を得やすい流れとなってきました。また、農民たちは稲作よりも養蚕の方が有利と分かって、桑畑を増やしたり、いっときは生糸商人へと転業する者も出て、近郷に生糸商人が沢山存在したようです。
鑓水商人は、高値で売りたい養蚕家と生糸の欲しい外国商社との間を取り持ち、諏訪・甲州・青梅・秩父などからも生糸を買い集め、鑓水村にある自前の蔵に蓄え、頃合いをみて高値転売を試みました。時勢をつかんだ鑓水商人たちは、1〜2代目(数十年)を経て豪商といわれるほどになって行きました。
鑓水商人は、横浜の原善三郎・貿易商をとおした売り方が多かったそうですが、いろいろな資料によると「正規ルートで江戸商人へ売る」一方、「外国商社へ直接販売(違反)や抜け荷(密輸)」などもあったようです。長崎出島以外は輸出入が出来ない昔から幕府体制の緩んだ隙を突き、横浜で生糸売買に活路を見出したのが、目先のきく鑓水商人でした。
余談ですが、横浜の原善三郎氏(群馬県館林市渡瀬村生まれ)は、絹の買付け商人を経て手広く貿易商を営み、さらに群馬県下仁田に近代製糸工場も作った実業・政治家です。後年に原財閥を作り、老後は横浜の三渓園(現在は国の名勝指定)に住みました。この著名な敷地5万3千坪もある三渓園を作ったのは、善三郎氏の孫娘と結婚した実業家・原三渓氏で、氏がさらに財をなし造ったものでした。

(注1);微粒子病
ノゼマという原虫に感染して発病する伝染病。原虫は、母親のガから卵へと感染する。発病したカイコの体液中に、約2ミクロンの原虫の胞子が、細かい粒となって見えることから、こう名付けられた。
伝染力は強力で、1850年代(弘化7年)にはヨーロッパで大発生して壊滅的な被害を与えた。1870年(明治3年)にフランスのパスツールが、母ガから卵に感染するために発病するという原因をつきとめた。そこで母ガを微粒子病の感染があるかどうか検査し、取り除くという予防法を開発した。

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