web版 第24-3号(No104)

   古い由木への散歩道

            古い由木への散歩道 その17
            八王子の歴史遺産「絹の道」B 
     
今回は、主な鑓水商人の盛衰を要約し紹介いたします。

●鑓水商人の盛衰

・八木下要右衛門家
[初代;善兵衛、二代; 要右衛門、三代;敬重、四代;正信]
 八木下家は、安政5(1776)年から年番名主をつとめ、質屋・糸商・酒造業も営む富農でした。全盛期は三代目敬重のころで、村内の諏訪神社には大塚徳左衛門と競って奉納した大きな石灯籠が現在でも残っています。
 石垣大尽と呼ばれた彼は、飢饉のときに村人を救済し、使用人の教育にも熱心でした。また、生糸商として江戸商人との交流もあり彼の弟は江戸吉原花川戸の尾張屋を継ぎました。しかし四代目の頃没落したそうです。
 三代目敬重の時代は、天保(1830〜43)から明治初年頃にかけてです。日本が開国する以前の嘉永4年(1851)に自分の屋敷内に異人館を建て、そのころ日本との交際が許されていたオランダの商人を招き、この洋館で接待し、海外の事情についての見聞を広めるなど、時代を見通すような活動もしていました。開国後にはイギリスの外交官アーネストサトウが横浜から馬で鑓水を訪れ、この異人館に泊まっています。異人館は六角形の西洋風のしゃれた木造建物で、らせんの階段で2階へ上がるようになっていました。この異人館は、鑓水小学校へ移管され事務室と洋裁室に使われていましたが今はありません。
 三代目敬重は、明治2年、家を正信にゆずるとともに、名を善八と改めて別の商売を始めましたが、翌年11月の夜に強盗に襲われ亡くなった。残った妻・つるのは、その後も番頭を使用して糸商を続けたが、もはや昔日の商いは続きませんでした。四代目正信も同様に収入減のため東京入船町へ転居し、豪邸は空家となりました。

・平本平兵衛家
[初代;平兵衛、 二代;文蔵、三代;房長]
 初代平兵衛は、大工の家に生まれましたが、これを嫌って、30才の時(1802)生糸商人になりました。彼は商売上手で、わずか数年で財をなし、鑓水生糸商人の先駆者となりました。しかし、彼には後継ぎが居らず、同じ村の生糸商人だった大塚五郎吉の弟を娘婿に迎え、二代目平兵衛を名のらせました。
 初代、二代ともに、江戸商人との取引きで繁盛しましたが、三代目になって法令の網をくぐる密貿易が発覚し没落しました。発覚の引き金は、生糸などの五品江戸回送令によって、横浜に於ける外国との直接売買が禁じられ、江戸商人を通さねばならなくなった反動からでした。
 この事件は元治元年(1868)に発生した弁天山一件と呼ばれる一角でした。平本平兵衛が元締となって村の糸商と一緒に横浜へ直接出荷した生糸が、神奈川奉行所の手によって舟(山本号という持ち舟)ごと押収され、三代目平兵衛は江戸に三千日の居詰め(他の糸商は罰金)を命じられました。その後帰村したが財産を没収され、明治の頃には貧農となりましたが、今では子孫が立派に再興しているそうです。

・大塚徳左衛門家
[初代;信元、二代; 直重、三代;徳太郎、四代;林蔵]
 大塚徳左衛門家は寛文5年(1655) から明治3年(1870)まで代々名主をつとめた村一番の名家で、農業のほか質屋と糸商を兼ねていました。
白壁をめぐらした豪壮な屋敷内には七つの土蔵が建ち並び、東の大尽と呼ばれていました。また、村一番の生糸を扱う商人で、江戸の呉服商との交流もあり、二代目直重は三井の筆頭分家から後妻を迎えています。後妻のお加津は30才の若さで亡くなりましたが、江戸でも屈指の財閥と縁組ができたということに、大塚家の豪商ぶりがうかがえます。
 しかし、鑓水一の名家といわれる家柄でありましたが、名主をつとめる主家・岡部家が幕末に身代を傾けた影響(借財7千両の返済)と、明治17年4月9日の木小屋出火が春の烈風に煽られ、豪邸と七つの土蔵もろとも焼失、さらにこの炎は少し離れた高台の永泉寺も焼き名家は没落しました。
 「嫁入り橋」という橋名が、由木街道の「バス停・永泉寺前」近くの大栗川にかかっています。この橋の由来は、二代目直重が三井の分家から後妻お加津を迎えたときに通ったことから名付けたと言われています。なお、大塚徳左衛門家の豪邸は「嫁入り橋と永泉寺の中間あたり」にあったそうです。

・大塚五郎吉家
[初代;五郎吉、 二代;name、三代;善作]
 大塚五郎吉は、漢字・書画に通じ文化的教養を身につけ、当時の百姓にしては優れた人物でした。領主・田安家から抜擢されて年番名主を勤め多くの文書を残しました。
 反面、「狼の五郎吉」と呼ばれて恐れられたやり手の糸商人でもありました。が、その多くは商売上のもめ事が原因でした。これは、それだけ手広く商売をおこなっていた証しでもあり、横浜商人との取引きで財をなしました。
 五郎吉のあとを継いだ孫の二代目name(積三郎)は、豪胆な祖父のやり方を改めて、商売の規模を小さくし、地主経営の農家へと転換していきました。nameは道路の改修や鑓水学校設立などの公共事業に尽力し、日本赤十字社でも活躍しました。
 明治17年にその人柄をかわれて戸長となり村政につくすなど、他の鑓水商人の家が没落するなか大塚家が存続しえたのは彼の才覚によるものといわれています。
 なお、大塚家の子孫が昭和2年に計画された南津鉄道建設計画の中心として活動するも、世界的恐慌などにあい事業が途中で頓挫しました。
以上に鑓水の代表的な豪商4家を紹介しましたが、他に糸商人と呼ばれる家は7軒あり、合計11軒も存在しました。 
 その盛衰を時代別に分けると、幕末から明治初年にかけて活躍した第1期・鑓水商人と呼ばれる人々が消えたあと、第2期・鑓水商人といわれる大塚惣兵衛・宗平親子、八木下要右衛門家から分家した八木下清之助などがあらわれました。
 彼らは明治初年頃から活躍し始め、むしろ相場師の色彩が強かったとか。相場は儲けが多い反面、悪い風が吹くと没落は早いものです。明治17年(1884)以降、おりからの経済恐慌のあおりを受け舵取りが難しくなった頃、第2期・鑓水商人たちは姿を消していきました。

参考文献 ・『絹の道』図書館報増刊 (1977)name 著           
・絹の道の遺跡と現状の記録 ―昭和55年11月の現況― 小泉栄一他 著
・呪われたシルクロード 辺見じゅん 著

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