野猿街道の今昔を描く その18
「峠−打越側の集落について」
著者 橋本豊治
夜、打越坂を登りつめると峠の手前に六軒ばかりの集落があった。ここは微かな電灯の光を見てホットする場所であった。地名は北野の飛び地であった。道の左側手前に小さな二軒長屋があり、一軒は箒屋(ほうきや)と呼ばれ、隣は勤(つと)め人だったとのこと。次ぎの家は田中という桶屋さんで年中主人が板を削ったり、箍(たが)を締めたりしていた。
店の空地には、素材の板が乾燥の為高く積み重ねられていた。続いて大工の伊藤さんの家があり、右側には山下さん宅、そこは右に行けば手の平松から鑓水道了堂、左に入れば鎌田鳥山、平山の六国台、高幡不動に至る野猿峠ハイキングコースの入口となる。さらに、鎌田鳥山方面に入ると坂があり、登ると旧道と交差する。そこに中島さんという杉皮葺きの中二階の家があった。旧道が使われていた時、そこで中山出身の石井伝兵衛さんが茶店を開いていた。大きな桜の木が数本あり、よく時代劇に見る茶店そのままの風景であった、と下柚木の老人達は話していた。
今は、峠道も広くなり、道の両側には家並みが続いている。鎌田鳥山へ至る旧野猿峠ハイキングコース入口の看板も余程注意しないと見落としてしまう。左側山頂には朝信協研修所の建物が、その下には、真四角なコンクリートの東京都水道局、絹ヶ丘給水所が出来ている。曾ての美しい松林と雑木林の風情は片鱗も残されていない。
◆橋本豊治画伯のご好意により「野猿街道の今昔を描く」を平成22年7月より連載させていただきました。主に下柚木を描く部節を中心に紹介しておりましたが、物語が野猿峠を越えので、後1回にて終了です。