web版 第24-6号(No107)

   野猿街道の今昔を描く

            野猿街道の今昔を描く その18
            「峠−打越側の集落について」 
                 著者 橋本豊治
     
 夜、打越坂を登りつめると峠の手前に六軒ばかりの集落があった。ここは微かな電灯の光を見てホットする場所であった。地名は北野の飛び地であった。道の左側手前に小さな二軒長屋があり、一軒は箒屋(ほうきや)と呼ばれ、隣は勤(つと)め人だったとのこと。次ぎの家は田中という桶屋さんで年中主人が板を削ったり、箍(たが)を締めたりしていた。
 店の空地には、素材の板が乾燥の為高く積み重ねられていた。続いて大工の伊藤さんの家があり、右側には山下さん宅、そこは右に行けば手の平松から鑓水道了堂、左に入れば鎌田鳥山、平山の六国台、高幡不動に至る野猿峠ハイキングコースの入口となる。さらに、鎌田鳥山方面に入ると坂があり、登ると旧道と交差する。そこに中島さんという杉皮葺きの中二階の家があった。旧道が使われていた時、そこで中山出身の石井伝兵衛さんが茶店を開いていた。大きな桜の木が数本あり、よく時代劇に見る茶店そのままの風景であった、と下柚木の老人達は話していた。
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 今は、峠道も広くなり、道の両側には家並みが続いている。鎌田鳥山へ至る旧野猿峠ハイキングコース入口の看板も余程注意しないと見落としてしまう。左側山頂には朝信協研修所の建物が、その下には、真四角なコンクリートの東京都水道局、絹ヶ丘給水所が出来ている。曾ての美しい松林と雑木林の風情は片鱗も残されていない。

◆橋本豊治画伯のご好意により「野猿街道の今昔を描く」を平成22年7月より連載させていただきました。主に下柚木を描く部節を中心に紹介しておりましたが、物語が野猿峠を越えので、後1回にて終了です。

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   鑓水・大塚山は南関東一の大古墳
 絹の道にある大塚山公園(道了堂跡)は、底部の長さが約百四十bもある南関東第一位になる見事な前方後円墳だそうです。この古墳は後期古墳に見られるように、自然の山を存分に使い、さらに盛土し立派にしたものです。
  この地点は、川崎地区から八王子横山地区まで続く「横山(多摩)丘陵」の最高標地であるため、建墓したものと思われます。
  鑓水の小泉栄一氏宅にある大塚山道了堂配置図に、明治26年写しとして古墳の書き入れがあります。上部及び後円部の大事な所が、かなり荒らされているが、専門家でなくても大古墳と判るそうです。「大塚」という名前からもこの山は大古墳で、八世紀頃にこの古墳の回りに穴を開け、遺体を入れたと見える横穴古墳が、前方部に四基と東わきに二基を見ることができます。
  道了堂の子孫の方で、町田にお住まいの浅井さんから聞くのに、大塚山公園前の市水道・水源タンクの所にも「踊り場を持つ二段構築に作った底部30bの円墳」があったとか。
  大栗川流域は、古墳の宝庫と言っても過言ではないそうで、大塚地区にある由木・大塚山は、わが国最大の底部幅を持つ円墳です。この大塚山は、野猿街道の信号・堰場東(旧道との交差点)から二つ目の信号の南側にある丘で此処に最照寺と八幡神社があります。周辺の古墳を含め機会を見て紹介いたします。   
引用文献…生きている八王子地方の歴史 村下要助著

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