web版 第24-7号(No108)

   野猿街道の今昔を描く

            野猿街道の今昔を描く その19
                  「鎌田鳥山」 
                 著者 橋本豊治
     
 私の実家には鎌田鳥山の南側に二ヶ所の山林がある。一ヶ所は南東二百メートル斜めに下がった所にある。鳥山も今は母屋が主に使われているようだが、以前は東側の林の中に、バンガロー風の小屋が幾つも建っていて賑わっていた。
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 ちょうど頭の上に小屋があるような位置となり、私が山仕事の手伝いに行った時には、陽気な歌声と一緒になんとも言えない焼鳥の臭いが降りてきたのだった。現在では珍しくが、当時の農家では生活に余裕がなく食べに行ける状態ではなく、まさに高嶺の鳥山であった。
 小屋の前を通るハイキングコース沿いの雑木林には幾つものカスミ網が張られていて、時折小鳥がバタバタしているのが見られた。
 昭和初め、鎌田鳥山が開店した時のことを下柚木の人に聞くと、昭和三年に開通した野猿峠の新道にタクシーが何十台と並び、野猿峠ハイキングコースと書かれた旗が何十本も立てられていたとのことである。さらに、地元の人によるとそれまで猿丸峠と呼んでいた峠が、野猿峠ハイキングコースを開設した京王電鉄と鎌田鳥山の宣伝により、野猿峠名が普及され一般化されてしまったと言っている。
 鳥山の御主人に聞くと、神田で曲輪(セイロ、フルイ等)を製造販売していた父親鎌田弁弥さんは飛騨高山の出身で狩猟が好きであったとのこと、この地方に商売に来て、野鳥の多いのに気づき、カスミ網の猟場を設けたとのことである。
 最初は「鎌田のとや」と言って狩猟に来て、取れなかった人達に野鳥を分けてやったりしていたそうだが、昭和四年以後、焼鳥を食べさせるようになり、戦争末期の短期間の休業を除き、営業を続けてきているという。今は野鳥焼きを看板にした鳥山が多いが、私には鳥山と言えば鎌田鳥山を思い出すが、歴史的に見ても、この地方の鳥山の元祖と言える。
 現在、高幡不動から野猿峠に至るハイキングコースも宅地造成で尾根道が寸断され、一部を残すだけとなってしまった。昭和三十年頃までは都心に住む人々の憩いの場として、多くの人が利用したようだ。
年配の人に野猿峠の思い出はと聞くと、遠足に行ったとか、ハイキングに行ったとか言い、鳥を食べさせる所があったなーと懐かしそうに話したりする。
  現在の天皇陛下も昭和三十年三月、学習院大学の学生時代、学友とここを訪れている。
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※広報部より;「野猿街道の今昔を描く」の連載は、今月号を以って連載を終了いたします。この本は自宅に所有されていた方が居られたり、また既に読まれた方も居られますが、絵画の方に気が行き文章を味わいながら読まれた方は少ないように思われました。
  一昨年より本紙に連載し、改めて文章を読み返し絵を鑑賞し、『過ぎし日の懐かしい良き頃の下柚木』を思い起こされた方も多かったのではと存じます。
  実は、本紙は「下柚木、次いで由木地区の情報提供」に重点をおいているため、打越地区や北野地区の部分を割愛しております。こちらも中々に味わいのある内容を紹介されて居られます。図書館にお出かけの際には氏が執筆なされた他書籍も含め是非お読みください。
  最後になりましたが、連載を快く諒解くださった『著者・橋本豊治様』に、この紙面をお借りし厚く御礼申上げると共に今後の更なるご健勝・ご発展をお祈り申上げます。

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   古い由木への散歩道
                『柳沢の池』の由来

 バス停・栗本橋の次ぎのバス停が柳沢です。この柳沢の名は「柳沢の池公園」にある「柳沢の池」から池を取って命名したものと推測します。現在の柳沢の池は高い鉄柵で囲まれ、繁茂する雑木が邪魔をし池がよく見えません。しかし冬期には沢山のカルガモを見かけるのでヒナ育てに適した池のようです。
  昔から栗本橋付近に住む方々に池のことを聞くと、子どもの頃はよく水泳に行って池へ飛び込んで楽しんだとか。つい20年前頃に大雨が降ったとき、池の水が溢れフナが道端の水溜りで泳いでいたとかを聞きしました。
  この池は、昔の下柚木村領主だった旗本・柳沢氏の肝いりで作られた農業用の池なので柳沢の池と呼んだのでしょう。池に溜られた湧水は、大田平辺りの田畑を潤しました。
  池を造った年代は、新編武蔵風土記稿(1804〜1829年)の「下柚木の部」には紹介されていないため、1830〜1870年と思われます。
  柳沢氏のルーツを調べますと、戦国大名武田氏の地方武将団・武川衆に属し、甲斐国巨摩郡柳沢村(現在の北杜市武川町/樹齢二千年の神代桜で有名)に住み柳沢と名乗った。武田信玄→武田勝頼に仕えていたが織田信長に敗れ、その後徳川家康に仕え二百三十一石の旗本となった。将軍綱吉の時代(赤穂浪士が吉良邸へ討入りした元禄の頃)に至って、柳沢吉保が側用人として活躍し、十五万石の大名となっています。

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発行 下柚木町会  編集 下柚木町会広報部

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