web版 第24-9号(No110)

  古い由木への散歩道

               由木氏族の苗字 

 戦国時代(15世紀末〜16世紀末)とは、戦乱が続いたために世が乱れ室町幕府の権力が完全に失墜し、武田信玄や織田信長などの戦国大名が各地に君臨した時代を言います。この頃の武士は、戦いに常時従事することがなく、普段は農作業が主で、領主の命令で戦いに参加したのです。
当時の庶民は土地に君臨する領主(豪族又は大名)に年貢を納め、農地を守られ暮していました。
 戦いのタネは、土地境界の争いや跡目相続・勢力拡大などでした。
 「近隣の豪族との争い」があって戦士(武士)へ招集がかかると、村の成人男子は全員参集したことでしょう。 
 しかし、全員が刀や槍を持つ戦い手として最前戦に加わったとは考え難く、得て不得手に応じた「武士の家来(注1)や伝令・運搬・雑用係りなど」、様々な役割がありました。(注1;戦国時代には足軽といわれました)
 もし、不運にも戦いに負ければ、戦い共犯者としての処罰、場合によっては土地の没収などがあったりするため、それなりに戦いへは協力したと思われます。一方、勝ったときの褒美は、武士なら土地(又は金穀など)、家来レベルなら金穀・苗字・帯刀などを与えられるなどが通例でした。
 さて、由木村に住む人々のルーツを古い年代ごとに考察しますと、「古墳時代の大昔から土着していた人」、「横山党の由木氏」・「大江広元一族の長井氏」・「大石一族」・「北条氏照氏」に付いて来た家臣衆が考えられます。
 戦いに参加し、褒美に土地や苗字を戴いたときは良いでしょうが、戦いに敗れると「落ち武者の厳しい探索」は必ずあった筈、このようなとき「ご先祖代々からの苗字」は、ほとぼりが冷めるまで伏せておいた筈です。
由木村の歴代領主に関わりがあった戦さにおいて「三つの敗れた戦さ」があります。
 一つ目は、横山党が鎌倉幕府の内部で起った「和田合戦」へ加勢したときのことです。建暦3年(1213年) 三浦一族(三浦半島の豪族)の和田義盛が北条義時(鎌倉幕府側)と戦いをはじめると、横山党が集めた相模・八王子・由木衆3千余騎は和田氏側につき奮戦しましたが、戦いに敗れ横山党は滅亡しました。そのとき戦勝軍・鎌倉方が多摩一帯の領主として派遣したのが、片倉城へ入った 「大江広元一族の長井氏」でした。
 二つ目の敗れた戦さは、「河越城の戦い」でした。この戦いは、戦国時代に武蔵国の中心的な城であった河越城(埼玉県川越市)の争奪を巡って、城外周辺で争われた一連の戦いを指します。北条早雲の嫡男・北条氏綱(2代目当主)は武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、大永4年(1524年)から4度にわたる戦いが展開されました。この戦いは初め上杉方(大石定久は守護として参加)が優勢だったものの北条方の夜陰に乗じた奇襲に敗れ、氏康(氏綱嫡男)の三男・氏照を大石方へ養子として迎えました。この戦いに敗れた側の定久公は引退し、大石一族の所領と家来は全て後北条(小田原城が主城)のものとなりました。
 三つ目ですが、しもゆぎだより23の3号で述べた次の文をご記憶でしょうか。  
・・・・大石定久公が没されて間もなく 後北条方と豊臣秀吉方とが戦った「小田原の役(1590年)」がありました。八王子城は前田利家・上杉景勝隊ら北国勢の猛攻によって、わずか半日で落城し、ほぼ全員討ち死にとなりました。このとき北条方が八王子の近在に発した軍役指令は『郷村・男子について15歳から70歳までの農民徴発による百姓大量動員を強行せよ』でした。一方、豊臣方の指令では『刃向かう者は全員討ち取れ』とこれも厳しいものでした。・・・・・
 この八王子城の戦いで、大石定久公幼少の地だった由木村からは、かなりの大人数が八王子城へ動員された筈です。
 しかし、城内の武士はほぼ全員討ち死だったそうですから、例え城から逃げ落ちても厳しい落ち武者探しから逃れるためには帰村が叶わず、また戦役へ参加しない家でもこの戦い以降は「苗字の使用を避けた」ことでしょう。
村下要助著の「生きている八王子地方の歴史」の文中から長井由木城を紹介します。長井氏とは、横山党が和田合戦で敗れた後に、鎌倉幕府が多摩に送った「大江広元一族」の「長井氏」のことで、長井氏は片倉城の支城として由木城も使っていました。そこで後年における大石一族時代の由木城と区別するため長井由木城と称しています。
 著者は、この城の構築物には触れていませんが、城の範囲は「東は関戸・百草付近、西は猿丸峠・杉山峠、南は落合・三沢(稲城市向陽台)、北は平山」と広範囲な土地の主要街道から敵が攻め込むことを阻止する役割の城と述べています。広範囲な面積を有する長井由木城の外郭には土塁・柵や掘割がなく、街道からの外敵侵入防止バリヤ(集落)が要所にあり、そこへ家臣を住まわせ警護したものと思われます。
 この著書によると、稲作が伝わる「古墳時代 〜長井由木城の時代」に絡む最も古い由木氏族は、田口(平山)・川和・安斎・安西・篠崎・田中・長島・永島・小山・大沢・斉藤・吉浜・角田・樋口・落合・大塚・八木下・清水・鑓水井上・宮崎・荻沢・飯沼・田倉・堀江・萩生田・富沢・熊沢・有竹・小磯・高橋・石渡・石坂・黒田・石坂・池田・上原・佐藤・淡路氏等とみられ、これらの氏族はのちに大石氏、さらに氏照氏(大石定久公の婿)へ仕えたと推量しています。
 次の由木氏族は、武州南一揆で長井氏が衰退後、大石氏の指揮下に入った家臣で、金子・井上・西川・内田・伊藤・伊東・細谷・鈴木・峰岸・井草(豊島)・吉田・勝沢・小田(小田野)・大導寺・大室(大藤)・高麗・栗本・青木・関根氏等の氏族と見られます。
 著書では、これらの氏族名は「由木村に明治以前から住む人なら約8割の確率で当たるだろう」と述べています。残念ながら引用資料の出所記入がなく追調査は出来ません。
 なお、大石氏の指揮下に入られた下柚木村・氏族の方の一部は、200年前に発行された「新編武蔵風土記稿」に記録された下柚木御嶽神社・棟札によると、次の方々は「ご先祖が昔は武士だった」とありました。(しもゆぎだより23の3号参照)
 由木地区の苗字付き・旧家紹介において、他村では2軒(石井氏/中山村・井上氏/大塚村)があり、下柚木村には次の6軒の旧家が記録されていました。
 ・・・・「百姓忠藏;先祖を川和豊後と言い、御嶽神社の棟札を見ると久しい昔に土着している」、「百姓徳右衛門;先祖を伊東日向介と言い、天文(1532〜1555年)の頃の人でした。その子孫・淡路介が八王子城主氏照に鉄砲頭として仕えていたが落城の日に討ち死。その子・伊藤将監から7代にわたり今に至るとの系図がある」、「百姓新藏;先祖を内田小右衛門と言い同棟札にある」、「百姓勇助;先祖を小林図書と言い同棟札にある」、「百姓榮藏;先祖を田倉佐渡守と言う」、「百姓傳左衛門;先祖伊藤太郎左衛門は、本姓大石氏であると棟札にあり、家にも大石系図がある。その系図によれば大石播磨守の所縁で大石を名乗った。また先祖の佩刀として備中長船祐光を持っている」。・・・・・
 なお、更なる由木氏族名の追跡をなすべく「新編武蔵風土記稿」を読み返したところ、他村の神社・棟札と墳墓の記事から氏族・13氏を確認し、これを著者・村下要助の記述と重複有無をつきあわせたところ、9氏は重複があるものの重複のない4氏(今村氏/松木村・植松氏/松木村・石井氏/鑓水村・横倉氏/堀之内村)を確認しました。
 戦国時代が終わった徳川幕府の頃から明治に至るまで、由木村は徳川の旗本領地となっていたため、苗字を名のっていたのは地頭や名主等のみでした。村人の名前は、例えば「百姓 ○○」などと苗字の使用が無かったものの、ご先祖からの苗字は密かに子孫へ伝え残されて来たと思われます。
徳川幕府の世が終わり、明治8年2月になって「平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい)」が明治政府から布告され、ご先祖伝来の苗字(名字、姓)を名乗るようになりました。苗字のない人は名主かお寺へ相談し苗字を得たそうです。
 実は明治3年に「平民苗字許可令」が出ていたのですが、平民はあえて苗字を名乗ろうとしなかったため平民苗字必称義務令が布告されたものだそうです。(広報部記)

文中紹介以外の参考資料;箱根の坂 下巻 p96 司馬遼太郎

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