web版 第24-11号(No112)

  古い由木への散歩道

            古い由木への散歩道 その16 最終版
              八王子の歴史遺産「絹の道」C
 
当初の予定では、「C」で鑓水の史跡等を紹介しようと考えて居りましたが、今年の本紙第24の7号で体力つくりウオーキング記事中に、絹の道・史跡の一部を紹介しました。そこで歴史的な建物・石碑は別途の機会とし、今回を「その16」の最終版として「絹の道」総まとめとします。

●鑓水商人の活躍を振り返って
  明治以降の生糸仲買業を取り巻く環境を見ると、明治22年(1889)に甲武鉄道が新宿〜八王子間を開通し、明治40年には横浜鉄道が横浜〜八王子間を開通しています。
  これは鉄道輸送により「鑓水峠経由の生糸人馬運搬は不要」の通告でもありました。
  また、明治政府は生糸輸出振興策の一環としてフランス人技師を招き、明治5年(1872)に「官営の生糸模範工場」(現在、世界遺産として申請中)を群馬県富岡市へ作り、その5年後には八王子へも「民間経営の生糸工場」が設置され近代化が始まりました。
  さらに各養蚕地が品質と能率向上に努めた結果、日本の生糸産業が変革され、絹製品の輸出が外貨獲得に大きな貢献をしました。
  このように時代が進む中、「微粒子病が世界的大流行」の追い風で絹相場が高騰し続けた良き時代も、予防対策が進んだ結果、諸外国の生糸産業が回復しました。そこへ鉄道開通のダブルパンチがあって、鑓水絹商人の3・4代目は仲買商売を失いました。
  それでも彼らは、先祖伝来の事業継続を夢見て絹相場へ手を出し大損をし、先代たちが苦労して作った家屋敷を手離しました。10軒ほどあった鑓水絹商人の豪邸がないのはこのせいだと思われます。 
  今、絹の道を歩いて思うに、このようにひなびた地域に経営上手な大勢の鑓水商人が、なぜ生まれ育ったか不思議です。
初期の生糸商人のなりわいは、農業のかたわらに質屋や金貸しを行う年番名主(2・3人で年ごとに輪番交代)でしたが、これで商売の元手を得たのでしょうか。
 その一方で、三井などの江戸呉服商人も参加した八王子「縞市」の生糸売買で次第に頭角をあらわし、商機を見るセンスに優れた絹商人が輩出されたことは立派です。
 初代八木下要右衛門は、江戸時代後期(1800)頃から質屋・糸商・酒造業も営む村の富農でした。大塚徳左衛門も八木下家同様の富農な糸商でもあった名家でした。やや遅れて誕生した初代平本兵衛は大工の家に生まれましたが、これを嫌って他村の糸商に奉公し、30才の時(1802年)生糸商人になり、わずか数年で財をなし、鑓水生糸商人の先駆者となっています。
 八王子や由木の中で、鑓水村からのみ多くの有能な糸商人を輩出したことは、伝統的な商売心の土壌があったのでしょう。村の糸商同志が切磋琢磨し、豪商と言われるほどになった訳ですが、彼らは近隣の神社仏閣へも多額な寄進もする立派な商人でした。但し、糸商人と言っても身分上はあくまで百姓であり、名主や組頭でした。
 彼ら豪商の経営の規模は、今となっては子孫の多くが鑓水を去ったり、地主などへ転身したため詳しくは分らないとか。
五郎吉家の文書から僅かに覗い知ることや近隣の寺社仏閣に残る名入りの大きな石灯籠・鐘などの寄贈品からおおよその経営規模が推測できるのみです。
 例えば、八王子全域(当時の)と町田市相原町を含めた地域から集めた「差上申御請書の事」という上納金(年貢とは別の特別負担金)の記録が残っていますが、合計205両の中で鑓水村が約半分の100両を分担しています。その内訳は、鑓水村の大塚徳左衛門・八木下要右衛門が各30両、平本平兵衛・大塚五郎吉・利平衛・吉右衛門が各10両でした。当時の10両は現在の100万円位に相当します。
 鑓水村にある豪商の大きな邸宅には、長屋門(門の両側が使用人の住居や納屋・作業所となる塀を兼ねた大きな建物)と幾つかの土蔵があり、ここに多くの番頭や手代を使って生糸と繭を広く買い集め、江戸一級の豪商たちと交流がある地域の名家であり名主だった訳です。
 一例を挙げると、大塚家は永泉寺東の丘裾にあり、幕末の全盛時代には屋敷の四囲を石垣で囲み、大きな母屋を中心に「いろは蔵」と称して七つの土蔵を建て並べ、田端坂方面から鑓水村に入ってくる人々の目には、その白壁が朝日夕日に映え、眩しいほどであったと伝えられています。また、庭には土俵をしつらえ、鑓ヶ岳というシコ名をもつ関取を贔屓にして、いつも出入りさせていたり、自らは天然理心流の始祖・近藤長裕の代から門弟として、剣術、柔の道にも励み、村の若者たちにも奨励していました。
 初代の豪商は質屋や金貸し業を兼業した人もおりました。他人が困っているときにお金で人助けをしていた訳ですが、引替えには必ず担保が付きます。借金を期限まで返せない時、担保の家屋や田畑が貸し手へ移ったことは容易に想像できます。借り手が村に居続けるには、今まで自分のものだった田畑で小作(賃料を払って地主から土地を借り耕作すること)に成らざるを得ません。村内の一部では評判が必ずしも良くなかったかも知れません。
 豪商の3・4代目には、苦労知らずの「ぼんぼん」も居たそうです。浅草の吉原で、店を一晩買占めてドンチャン騒ぎをしたとか。
 当時のいろいろな逸話が書き残されていますが、真偽のほどは分りません。現在の鑓水で生活する「在りし日の豪商の縁戚・子孫」には迷惑な話もあることでしょう。
今回、絹の道に関する書籍を沢山読む機会を得ましたが、紙面の関係から残念ながらごく一部の紹介となりました。もっと多くの史実を知りたい方に、次の代表的な書籍を紹介しますので、参考にしてください。

・浜街道『絹の道のはなし』 馬場喜信 著。 
  5・6年生の小学生からでも理解できるように工夫しながら平易に書かれた本ですが、詳しく豪商や生糸の運搬道、さらには史跡の細部までも紹介しています。馬場氏は、八王子の郷土史研究家としても著名な方で、市内で毎年に行われる「郷土史の講師」や「郷土史の書籍」を多数執筆されています。また、八王子市の「市史編さん委員」としても活躍中です。浜街道『絹の道のはなし』は、南大沢図書館にあり貸出があります。

・呪われたシルクロード 辺見じゅん 著
  富山県生まれ(昭和14年)の女流作家で、33才頃(昭和47年)から鑓水にまつわる生糸業の調査を開始し、昭和50年に発刊されました。新進の女流作家が熱心に現地に通って聞き込み、調べた話を書いたものです。辺見氏のノンフィクションは丹念な聞き込みを元に構成されていると評価されています。その聞き込みには興味深い内容も多いが、地元の方々にはご先祖の知られたくない話もあるでしょうから、今回は余り取り上げて居りません。昨年、武蔵野市の自宅で逝去(享年72才)。市内図書館になし。

・絹の道の遺跡と現状の記録 
  ―昭和55年11月の現況― 小泉栄一・他 著
 
  この記録書は、鑓水にお住まいの著名人たちが、絹の道に関し一部の側面の片寄った情報が多過ぎることを懸念し、正しい記録を後世に残そうと執筆されたものです。執筆は小泉栄一氏(大正6年生まれ)の他・数名居られます。なお、氏は「ふるさと板木」写真集、「多摩の丘(やま)かげ」等を執筆された郷土史に詳しい方で、八王子市・郷土資料館にも勤務されました。書籍(非売品で発行)は、南大沢図書館や郷土資料館にありますが貸出しはありません。

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発行 下柚木町会  編集 下柚木町会広報部

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