web版 第24-12号(No113)

  御嶽神社の鳥居からの連想

 神社の鳥居は神域と人間が住む境界を示す一種の門ですが、この鳥居に十種類以上のタイプがあります。さらにこの十種類以上を外観から区分けすると、次の代表的なタイプとなりました。
illust  Aタイプは靖国神社や神明社で見かけBタイプはお稲荷さんで見ます。Cタイプは安芸の宮島の海の中に建っている鳥居が有名ですが、下柚木の御嶽神社の鳥居も同じCタイプです。このCタイプは両部鳥居といい、本体の柱を支える稚児柱(稚児鳥居)とから構成されています。初詣のときに、ぜひチェックください。
  この鳥居名の「両部」という用語は蜜教の金胎両部(金剛、胎蔵)をいい、神様と仏様をいっしょに合せて祭る神社に建てられるタイプの鳥居です。
  南多摩神社史によると下柚木・御嶽神社は、大石定久公・弟の「大石遠江守」が滝山城の守護神を勧請し、天文2年(1533)に社殿を創建しています。また、永林寺は定久公の叔父に当たる「一種長純大和尚(俗名大石)」へ定久公が住んでいた由木城を譲られ、天文元年(1532)に寺とされました。ですから当時の御嶽神社運営は永林寺が行っていたようです。
  鑓水の諏訪神社は永泉寺が創建(1634)をしていますが、永泉寺は永林寺三世應義堅大和尚が天正元年(1573)に開山しました。但し、現在の諏訪神社は明治9年に八幡神社と子神神社を合祀して諏訪三社宮となし、社殿を造営しています。
  この諏訪神社を訪れると分りますが下柚木の御嶽神社と同じ両部鳥居が建ち境内の位置や広さもほぼ同じ。さらに社殿へ登る石段や女坂、境内にある石段脇の斜面にある小さな桟敷席も似ています。
  神楽殿は石段下の境内西側にありますが、御嶽神社の神楽殿も同じ西側に位置します。神楽殿は神様に楽しんでもらうために神楽を舞う舞台です。ということは昔は神様に見ていただくように社殿へ向かって建つか、斜めに建っていたようで、現在よりは小振りなサイズだったと思われます。そのお神楽を村の氏子達も桟敷席から観て楽しんだことでしょう。
  この他に江戸時代の頃、諏訪神社には番僧堂(5×2・5間)があって永泉寺の坊さんがここで管理していたそうです。同じように、御嶽神社にも番僧堂があったんでしょうね(多分、祭礼の時、鳥居脇に受付用テントが建つ辺りかな?)。
  江戸時代から昭和の初めまで、どこの村でも「村の鎮守のお祭り」や「初詣」などが最大のイベントだったことでしょう。御嶽神社へ初詣した折に、昔のことを想像してみるのは如何でしょうか。

参考資料;浜街道「絹の道」のはなし  馬場喜信 著

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