web版 第25-1号(No114)

  古い由木への散歩道

             古い由木への散歩道 その18             
                太古の由木について A

 多摩丘陵は、西は高尾山東麓から東は多摩川沿い、南は鎌倉の円海山緑地、北は淺川付近までにかけて広がる丘陵です。また横浜や川崎にかけて広がる丘陵は、横浜台地、川崎台地とも呼ばれ、ほぼ同じ時期に同じ地殻変動で造られた丘陵です。多摩丘陵の一番高い所が鑓水の大塚山公園(道了堂のある)や御殿峠付近で標高219〜221mです。

●古相模川は多摩丘陵を流れていた!
  多摩丘陵ができる50万年前の由木には、古相模川が北東から南東へ流れていました。その証拠が由木地区丘陵のあちこちに見られます。その証は丹沢山地に由来する「緑岩石や緑色凝灰岩等」で、河原跡が御殿峠や平山城址公園、下柚木の永林寺裏山付近などに見られます。このれき(礫)層の上には関東ローム層が積もっているため、丘陵の断崖面や坂道の表層からも観察できます。
古相模川の河原跡が解説付きで観察できる場所は、都立長沼公園・霧降の道で、丘陵頂上から5mほど下がった散策路に角のとれた小石のれき(礫)層が露出しています。
古相模川の上流は、大月まで甲州街道沿い(20号線)に流れる桂川です。現在の桂川は二つのダム湖(相模湖と津久井湖)を経て相模川へと流れ込んでいますが、古相模川が由木を経由し流れていたとはビックリです。途中には多摩川があるのに何で?と思いますが、古代の多摩川は現在の位置を流れていません。
  古相模川はときを経て境川などの河川経由で鶴見川河口から東京湾へ注ぎ、さらに南西へ進路を変え、中津川や道志川を支流とする現在位置の大きな相模川となりました。
●多摩丘陵の生い立ち
  間氷期の頃(氷河がとけて海水が増えた)浅い海だった由木は、氷期(氷河期)による海岸線後退(氷河が増えると海水位が下がる)が始まり、陸地となった由木を古相模川は流れ始めました。
  もう少し詳しく調べてみますと、約70万年前〜13万年前は氷河期を迎え、海岸線が後退して多摩地区一帯に陸が現れ、その頃の古相模川は北東へ流れていました。由木の辺り(多摩面)がやっと海から陸地になったわけです。 
  氷河期は何度も発生しましたが最終氷河期は約7万年前に始まり1万年前に終了しています。氷河期の周期は4〜10万年ですから、由木は浅い海から陸地になったりを何度も繰り返していたはずです。13万年〜11万年前の古地図では古相模川は南東方向へ流れていました。
  一方、古多摩川は南東へ流れていましたが方向を次第に南へ変え、多摩川が現在の位置に固定されたのは最後の氷河期(約2万年前)を終えた頃のようです。
  これには多摩丘陵の形成も関連しているようで、羽村市の羽村草花丘陵や八王子市の滝山自然公園(丘陵)が多摩川の西側に、更に多摩市から登戸辺りの下流でも西側に丘陵が並んでいます。現在の多摩川の水位は、関東大震災以後の砂利採取でかなり低下し様相が変わりましたが、多摩川の流れは太古から河床を掘り下げ固定化が進みました。
  2万年前頃(氷河期)の海水位を計算した報告書は沢山あり、現在より100m〜140mほど下がっていたとされています。その後1万5千年前〜5千年前頃、急激に海面が戻り(地球温暖化)現在の水位(海岸線)となっており、これはボーリングによる年代調査からも確認されています。なお、現在の相模川は八王子側に位置する多摩丘陵に阻まれ南東(由木方面)へ流れて来ることはありません。「この古相模川の流れを変えた多摩丘陵は、何が原因でいつ頃隆起したのか」を研究した文献を探しましたがズバリこれだという報告書はまだないようです。

●隆起の原因はなに?
  大地震があると土地の隆起や沈下が発生するという話を聞きます。房総半島・野島崎の例ですが、土地の隆起が元禄大地震で約5m、関東大震災で1・8mもあったそうで、6千年間に4回も大きな隆起があり離れ小島が陸続きとなりました。千倉のお花畑も隆起した海岸段丘です。反対に鋸南町保田や鴨川市の家屋や田畑が海に沈む被害が出ました。同じように関東大地震は湘南地区を約2m隆起させ、都内を若干沈下させています。
  相模湾にある相模トラフ周辺は地震多発地帯として有名です。トラフ(直訳では地形)とは細長い海底盆地のことで、深さが6千m以下であるものをトラフ、6千m以上であるものを海溝と言います。相模トラフはフィリピン海プレート、太平洋プレート、ユーラシアプレート、北米プレートが重なり合う複雑な位置にあり、太平洋側のプレートが陸側のプレートの下へ潜り込んだときのヒズミが溜まり過ぎるとハジケて地震や津波を起こします。
  この相模トラフ周辺の地震で、歴史に残る巨大地震(M7〜8)だけでも元禄大地震(1703年)、安政大地震(1855年)、関東大地震(1923年)があります。過去のM8クラスの相模トラフ周辺・巨大地震調査では、GPS調査から200年〜400年周期、断層などの変動地形調査から400年〜800年周期の二つの説があります。2012年時点の知見では、発生間隔として元禄型は約7200年前から4回、関東型は少なくとも11回ありました。房総半島南部では7000〜9000年前頃の津波堆積物が100〜300年間隔で観察されています。また南関東で発生するM7クラスの発生周期は約24年と報告されています。
  東大名誉教授で地形学が専門の貝塚爽平氏は「多摩丘陵の隆起は大地震に関連がありそうだ」と言っておられますが、学術的な確証はまだ見つかっていません。
  多摩丘陵の表層は関東ローム層で覆われていますがその下の地層は南方向へ向かって海岸線が後退した時期ごとに異なり多摩面T、多摩面Uなどと分類されています。この地層を覆っている関東ローム層、特に古相模川が流れていた証拠の御殿峠れき層の表層(多摩ローム層)を分析すると年代が分ります。
  関東ローム層は、富士山や箱根の噴火で放出された火山灰が偏西風に乗って流れてきて、40万年前からの長い時間をかけて積もったものです。火山灰は噴火地点から離れるほど少なくなりますが、正確には噴火時に降り積もった訳でなく露出した土壌が春の乾燥期に風で舞い上がり飛散した土ボコリが積もったものです。毎年0・1o積もると百年で1p、一万年で1mにもなります。火山灰には鉄分を含んでおり、これが酸化して赤黒く変色し赤土と呼ばれ、枯れ葉などの植物性有機質を含むと黒土と呼ばれます。 
  多摩丘陵で多摩ローム層を観察し易い所は、登戸の向ヶ丘遊園付近の切通しで層の厚さは20mに達しています。箱根に近い大磯丘陵では、累計すると150mを超える厚さとなっており地域差は大きいです。
  最近の調査では、大栗川支流の別所川付近の御殿峠れき層上の多摩ローム層で約20mの厚さが実測されていました。厚さ1mが1万年として20万年分となります。
  多摩丘陵が隆起し始めた年代を素人なりに類推することは危険ですが、10万年前〜5万年前あたりかな?という感じです。

●殿ヶ谷戸など各谷戸の形成
  多摩丘陵の稜線が波うっているように見えるのは、丘陵ごとに谷戸が形成された結果からの眺めです。例えば大栗川は源流の御殿峠の丘陵が隆起し始めた頃から雨が降ると低い方向へ水が流れ出ました。年に数回の大雨があったときの強い水流は表土を削り長い年月は大きな谷戸を容易に作ります。御殿峠頂上の標高は221m、大栗川と多摩川の合流点の標高は43m、差引き178mの大きな高低差が15q間にありかなりの急流が特徴です。野猿峠を起点に急傾斜を流れる殿ヶ谷戸川も同じで辺りの表土を削り現在の殿ヶ谷戸を作りました。

文献1;東京の自然史 貝塚爽平 第5刷2012.6
文献2;河川の低水時流量の地域的偏在とその
   要因(2) 生産研究1979.9 虫明功臣他

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発行 下柚木町会  編集 下柚木町会広報部

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