web版 第25-2号(No115)

  古い由木への散歩道

             古い由木への散歩道 その18             
                太古の由木について B

 日本列島の旧石器時代は、人類が日本列島へ渡ってきた時に始まり、終わりは1万6千年前と考えられ、この頃を無土器時代又は先土器時代ともいいます。石器時代を考古学的にいうと、打ち欠かれた石の道具である打製石器という単純な石器を使用し狩猟や木の実の採集生活を営んでいた時代で、200万年前から紀元前1万年前頃までをいいます。これ以降の時代は雑穀栽培や土器を使用した縄文時代となります。
  多摩地区の旧石器時代を紹介する一般向きの書籍はないかと探しましたが、残念ながら私にとって適当なものはありませんでした。現在、編さん中の八王子新史誌・第1巻「原始・古代」の刊行は平成26年度、その資料編「原始・古代」の刊行は平成25年3月なので待たれます。そこで八王子市に隣接する他市の史誌を調べましたところ、相模原市の市史・全7巻中の「考古編」が平成24年3月に発行されておりこの書籍は中味が濃く参考になりました。

●日本列島に原日本人はいつ頃やって来た
  NHKスペシャル番組「日本人」プロジェクト編(2001年発行)の書籍「日本人はるかな旅」全5巻中の第1巻から次の文を抜粋・要約し紹介します。
  「日本国」が誕生するはるか昔から、南北に細長い日本列島の大地は存在し、ここに日本人の遠い祖先たちが暮していた。
  弥生時代(2千3百年〜1千8百年前)や縄文時代(1万3千年〜2千3百年前)よりずっと以前のこと、人びとがただ風の吹く何もないこの列島に、ある日突然やって来た。
  「原日本人」は日本列島の地で突然わいて出たわけではない。太古、原日本人たちは世界のさまざまな地域から、この大地にやって来たのだろう。ある者は陸続きだったシベリア→サハリン→北海道という北方ルートを歩いてきた。そしてある者は南にひろがる大海原を渡り(朝鮮半島経由ルート)、何かの縁でたまたまこの列島へたどり着いた。
  古くから日本人のルーツを皮膚の色や毛髪・骨相などから推理した諸説は存在したが科学的な決め手は今一つでした。そこで登場したのがDNA分析による解析です。
 理想的なDNA試料としては旧石器時代のDNAが望まれるが、日本の土壌は酸性が強いため人体の発掘例は少ない。縄文時代の人骨を発掘保管したものが僅かながら有り、これから得られた検体のミトコンドリアDNA配列を分析した。
  この縄文人骨のDNA解析に取組んだのは、佐賀医科大学の篠田謙一助教授で、縄文人29体のDNA配列を「日本DNAデータバンク/世界各地の民族DNAを500万件収納」と突き合せた。その結果、1体は韓国人と一致、別の1体は台湾に住む中国人と、そしてタイ人との一致もあった。驚いたことに17体がシベリア平原に暮すブリヤード人と一致した(ブリヤード共和国はモンゴルと隣接し、古くはモンゴル族の一部)。
  日本人はさまざまなルートをたどり日本列島へ渡って来たが、本流は北方ルートのようです。ロシア人がシベリアへ進出したのは400年前で、太古のシベリア平原に住む先住民は日本人と同じ蒙古斑(乳幼児のお尻にある薄青い灰色の母斑)を持つブリヤード人と朝鮮半島経由ルート人との混血も居るということになります。

●「前・中期旧石器」捏造(ねつぞう)問題

  1970年前後の頃に発掘された複数の遺跡が3万年前より古いか否かの「前期旧石器」存否論争が学会の一つの争点となっていました。(「前・中期旧石器」とは3・3万年前以上をいう)。この論争が膠着状態となる中で、1981年に宮城県座散乱木(ざざらぎ)での発掘調査により、誰もが人工品と認める石器が3万年前より古い地層から発見され「前期旧石器存否論争」は決着と宣言されました。
  ところが2000年11月に毎日新聞のスクープにより、NPO法人東北旧石器文化研究所副所長(当時)が石器を遺跡に埋め込む現場が撮影され、彼の関与した遺跡は捏造の疑い有りとなって信頼を失い、「後期旧石器時代」をさかのぼる遺跡研究は振り出しに戻りました。

●日本列島最古の遺跡
  2001年以降の研究成果から誰もが認める確実な最古の遺跡は、神奈川県綾瀬市吉岡遺跡群、東京都中山谷遺跡・武蔵台遺跡など立川ローム層の下底近くから出土した石器群でした。その年代は3.8〜4万年前と分析され、その頃から確実に日本列島にヒトが住み始めたといえます。

●八王子市内の石器時代遺跡
  八王子市には船田石器時代遺跡(長房町)、犬目町中原石器時代遺跡などがあり、由木の近くでは北野石器時代遺跡が由井第一小学校敷地内で発見され保存(2本の石棒を伴なう敷石遺跡が北野事務所近くの北野天満社へ)されています。
  現在、多摩ニュウタウン地域で最も古い時代の石器が出土している遺跡は、松木No402などで、立川ローム層最下部から3万年前(旧旧石器時代前半)の石器が出土しています。多摩の丘陵の地形が今とほぼ同じとなったのは2万年前位だそうなので、3万年前には大栗川の畔で旧石器時代の人々が狩をしていたかも知れません。但し、当時の人々は狩猟や木の実採取で食生活をまかなうため土地への定住はなかったとか。

●石器時代の暮らし
  旧石器時代の人々がどのような動物を狩猟し食べていたかははっきりしませんが、出土動物の化石から想像ができます。ナウマン象の背骨に突き刺さった細石刃(槍の穂先状の石器)や動物を解体したとき、骨に残る解体傷(カットマーク)骨が出土することからイノシシ、シカ、クマ、オオカミ及びタヌキ、ノウサギやオットセイ、魚類などを狩猟していたことをうかがわせます。また石器とともに出土した焼けた石などから食料は焼いたり蒸し焼きが想像できます。
  植生は氷河期・間氷期によって異なりますが、関東南部の氷河期最寒冷期に繁茂していた樹木はエゾマツ、トウヒ、バラモミ、カラマツなど及びコナラなどの温帯落葉樹が混在し、木の実ではドングリやクルミなどが遺跡から出土しています。
  住まいの遺跡は敷石・炉・石器などの出土以外には見当たらず、シベリア地方の古民族が使用していた「けものの皮や樹木の枝葉を葺いた三角のテント風住居」及び「衣類はけものの皮で作ったアノラック風」だったと推定され寒さ凌ぎが目的のようでした。

●石器時代人のある日のできごと
  「武蔵野を掘る」(甲野勇 著)という書籍の『武蔵野台地の無土器文化・古代武蔵野のさすらい人』章の一部を次に紹介します。  ・・前文略・・雨をさけていた親子が水際に降り、清水を両手ですくってのんでいる。なにを見つけたのか、女は静かに立ち上がり、無言で前の方を指す。そこには兎に似た動物が、無心に草を食べていたのである。うなずいた男は足音を忍ばせて近寄り、その1頭を捕らえたが、あとはすばやく逃げ去ったらしい。それでも前の日から空腹をかかえて歩きまわっていた三人は大喜び、女は編み袋の中を探っていろいろな石の刃物を取り出し、その刃先を調べ始めた。男は刃物を受け取って早速料理にかかる。片手で毛皮をつまみあげ、皮と肉との間をナイフ形の石器で切り離しながら、手際よく赤はだかに剥いでしまう。
  女は袋の中から取り出した平たい棒切れを地面におき、これを両手でおさえ、その上に丸い棒を立て、せっせと両手でもみ始めた。やがてこげくさい臭いがただよい、木と木がすれ合う部分から細い煙が立ち始めた。・・中略・・枝に串刺しにした肉切れがあぶられる。焼けた肉の香りは、空腹にしみわたり、飢えた三人はわれさきにとこれを頬ばった。
  彼らは、この泉のほとりがよほど気に入ったらしい。腹ごしらえがすむと、木の枝や草を集めて小屋がけを始めた。大形の刃物を持たないこの人たちにとって、太い枝を切ることは厄介な仕事であった。しかし打ち割った大きな石片の鋭い刃は、この目的のためにかなり役立った。その晩、彼らはこの屋根の下でたき火に守られて安眠をとげることができた。・・中略・・男は翌朝暗いうちに起き上がり、棒を手にして出かけたが間もなく獲物をさげて帰って来た。
  朝の食事がおわると、女は生の毛皮を地面に敷いて、片側に刃をつけた「皮はぎ」で丹念に肉や脂をはぎとってから清水でさらし、枝をまげてこれを張りのばした。このなめし皮を仕上げれば、石の錐で孔をあけ皮紐でつづり合わせて、新しい毛衣を作ることもできよう。・・後略・・。

◆次号の「太古の由木についてC」では、石器時代及び縄文時代の由木の人口を紹介。「太古の由木についてD」(6月)では堀之内No.72などの縄文遺跡及び狩の技を紹介予定。
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発行 下柚木町会  編集 下柚木町会広報部

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