web版 第25-6号(No119)

  古い由木への散歩道

             古い由木への散歩道 その18             
                太古の由木についてC

 多摩丘陵に太古の人びとが定着(ある一定期間だが)し始めたのは約9千年から8千年前頃と推定され、住居選びは日当たりが良く、北風を避けられる南傾斜の場所を探し冬場だけに住む土地だったようで、1年を通して住むようになったのは縄文中期頃からと推定されています。しかし住居を造っても食料となる動物相や植物相(木の実など)が薄くなると別の場所へ移動したようで、本格的に定住したのは稲作などが導入された弥生時代からと思われます。 
  今回は、近隣である堀之内地区(八王子市)から遺跡が発掘され、考古学史上において著名となった「多摩ニュータウンbV2遺跡」にスポットを当て紹介します。

●堀之内地区の遺跡群発掘
  堀之内地区のbV2遺跡群発掘は、昭和56年から平成12年にかけ計15回も行なわれ、地域の方々が大勢、遺跡掘り作業に連日参加していました。当時は、近所の農家のおじさんや勤め人の若い奥さんたちが、日除け帽に腕カバーと地下足袋姿で参加。一緒に遺跡発掘をしていた当時の若手研究員たちは、今では大学教授や公共機関の管理職となって、八王子市の市史編纂委員や歴史講演会の講師などに活躍しておられます。
 発掘された遺跡物は京王多摩センター駅に近い「都立埋蔵文化センター」に収納され、研究報告と共に一般向け報告書(多摩ニュータウンbV2遺跡〜縄文のムラ〜A4サイズ・カラー版14ページ)もあります。一般向け報告書には写真が多数掲載されると共に分かり易い解説が興味を引き立てます。
  bV2遺跡は考古学的に著名で、縄文時代前期(約6千年前)の住居跡が16軒、中期(約4千8百〜4千年前)の住居跡が265軒(建物跡18軒)、墓壙(ぼこう/縄文時代に遺体を埋葬するために掘った穴)140基、埋甕(うめがめ/地面に埋められた土器だが用途は不明、墓のときもある)33基、配石8基、集石(石蒸し料理用施設)、炉穴(ろあな/屋外の炉)、陥穴(おとしあな/動物を生け捕る穴)が多数発見され、住んでいない時期には狩り場に活用していました。この遺跡面積は全国でも有数の規模をもち、広さは東京ドーム2つ分位です。
  bV2遺跡のおおよその位置は、野猿街道・信号大栗川橋北付近のレッドバロン店裏手にある遺跡で、近くの堀之内芝原公園・小山頂上に「この地に縄文遺跡があった」ことを示す住居の基礎石(レプリカ)があります。また、地元・寺沢地域にお住まいの自称・おっさん(酪農家の鈴木さん)が作っているホームページ「由木の博物館」の「堀之内は縄文の宝庫/遺跡」に、遺跡発掘当時の作業場を撮った貴重なスナップ写真が多数アップされとても参考となります。
                                   
●縄文前期のムラ跡
  bV2遺跡からは約6千年前の住居跡が16軒見つかっていますが、約2百年位続いたムラ(現在のような村ではなく、小さな家族集団の集まりの意)だという。一時期に平均して4、5軒の住居があるムラだったようで、住居跡が16軒分もあるのは、老朽化したとかで何度も建替えた柱の跡が隣接して発見されたからです。
 この時期のムラ遺跡は多摩丘陵全体では他に2カ所程度あり、遺跡から推してここは「先駆けのムラ」らしいが、出土遺物が少ないため詳細は想像しかありません。おそらく当時にしては性能のよい石斧を携えた入植者たちが、南に開けた丘陵の麓にムラの場所を選び住まいの建設を始めたのでしょう。しかし、長期に渡ってこのムラを営んだ様子はなく、再び無人の丘に戻っていました。

●縄文中期(約4千8百〜4千年前)のムラ跡 
  立地条件に恵まれたbV2遺跡の丘に、再びムラが作られて大きく発展し、多摩ニュータウン地区で最大規模の集落となったのが、おおよそ4千5百年前のことです。縄文中期だけで延べ265軒分の住居跡、一時期だけで20〜30軒のムラがあったと推定され、調査員も「異様にでかいムラ」と驚いた。ムラは環状に楕円を描くように家々が並んでいました。
  この中の277号住宅は十畳ほどの大きさで、周囲では一番大きい家で家族は多い方らしい。縄文時代の家族は5〜6人という説もあるが、大きい家なのでもっと多い家族が生活していたかも知れません。
  家の出入り口は東南方向にあり、床面までは竪穴の段差があるため小さなはしごを使って下りる構造です。家の中央には立派な炉があり、土器を地中に埋め込んで、その周囲を四つの石で囲っており、これを専門用語では「石囲埋甕炉(いしがこいまいようろ)」と呼んでいます。ここの家族はこの炉を使って毎日の煮炊きを行なっていたようで、その様子が目に浮かびます。
 この家の住人の更に詳細な生活を知る手がかりは残念ながら有りませんでした。それはこの家を40年ほど住み廃棄したときに、上屋も柱も引き抜き土器などの道具類もすべて処分したらしく消息がつかめないからです。
  話は横道にそれますが、記者(NHK)が発掘現場を取材していて腑に落ちないことが多く、縄文の竪穴住居が残っていないのに、なぜ当時の様子が分るか不思議に思ったそうです。発掘担当者の説明では、土の色と固さで分るとか。掘られた床面がその後使用されなくなるとそこに違った色の土が混ざる。その土を見分け、これまでの発掘例と照らし合わせながら「ここは床、これは柱、これは墓、貯蔵用の穴」といった具合に読み解いていくそうです。発掘に参加していたパートタイムのお奥さんたちは発掘歴10年・15年のベテランが多く、土の色や固さで穴の種類を推測できるほどの腕前だったそうです。墓やごみ捨て場など有機物が溶けた所はねっとりした感触があり、スコップを差し込んだときの感じで分るとか。このムラの繁栄は2度あり、一回目と二回目では2・3百年間も間がありますが、この間に土器の流行が変わるような社会的変化があり住む人数が変動していることを確認できるものの、何が起こって住居を棄てたのかは分らないそうです。

●縄文時代の双分制生活
  当時、bV2ムラの家数は多く、20軒を超えていました。環状に楕円を描くように家々が並び、277号はその西半分のほぼ中央にあった。発掘担当者によると、ここのムラ人の構成に興味深い点があるという。どうも西側と東側ではグループの出自が違うらしいのだ。家のつくりや家の中にある持ち物などが異なり、西側のグループはどこか別の地域、たとえば山梨あたりからやってきたのではないかという。東側は以前からの多摩住民らしい。ひとつのムラに二つのグループがいて一緒に暮らしていた! 発掘担当者は、縄文時代にはこういうことはそれほど珍しくはなく、担当者なら誰もが考えていることだそうです。
  専門用語になりますが、「双分制」(注1)という社会制度があります。

(注1)双分制という社会制度とは、このケースでは縄張りを接する集団同士の同類闘争(縄張り闘争)の緊張圧力を緩和するために集団同士で婚姻関係を結んだものを指します。

 bV2ムラのように一つのムラに二つの出自の違うグループがあって婚姻や相互扶助などの関係を結び、共同生活を送るときに双分制は役立ちます。
 277号の住民はもともと多摩丘陵の人たちではなく、よそからやってきた新参グループだった。とはいえもともとの住民との軋轢(あつれき)があったわけでなく、結婚相手を選んだり(近親交配の回避)、マツリを順繰りに執り行なったりと、むしろ「双分制」を積極的にムラの安定・継続に利用していたようです。この家の中に入ってさらに観察すると柱の付け替えも行なっていました。もともとは6本の柱で支えていたが東から北の位置にある柱が根腐れか何かを起したのか、3本を外し、4本に付け替えていた。この家は柱の取替えが可能なほど丈夫だったと推測できます。
  一軒の家からは、そこに住んでいた人たちの家や土地へのこだわりが見えてくる。277号だけではなく、人びとがこだわって一つの家に長く住んでいた例が沢山見つかっています。一例が同じbQ77遺跡にある三重の円を持った住居跡だ。この家の住人は一部の柱を外してさらに床面を拡げ、もともと住んでいた家を二度にわたって外側へ住居を広げている。恐らく家族が増え、家を建て増す必要があったのだろう。
 この家は70〜80年位は住んだようだ。さらに補修を加えながら百年も住み続けた家もあるというから、縄文人は家へのこだわりが意外に強かったようです。
 同じ場所に住み続けることは、その場所が生活環境に恵まれ、世代を重ねて住み続けることによって、その土地に愛着が沸き、広い意味で「ふるさと」のような思いが人々の間に生まれていったのかも知れません。当時の平均寿命は30才と推測されており、百年で「同じ土地に約三代の歴史」を重ねた家族がいたことになります。

 参考文献;NHK日本人はるかな旅1〜5巻      

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発行 下柚木町会  編集 下柚木町会広報部

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