web版 第25-7号(No120)

  古い由木への散歩道

             古い由木への散歩道 その18             
                太古の由木についてD

 今年の2月(第25・2号)において、太古の「原日本人」は「縄文人のDNA解析の結果」により、当時は陸続きだったシベリア→サハリン→北海道という「北方ルートを歩いてきた」と紹介しました。
 一方、南北に長い日本列島に暮らす人々の現代の顔は、アジアで最もバラエティーに富むとも言われています。「現代日本人の顔」にこだわった形態人類学者・多賀谷昭教授は、コンピュータによって昭和50年から多変量解析という手法を駆使し、一人ひとりの顔について目・鼻・顔の長さ・頬骨など52箇所の部分を計測しデータ化しました。その結果を顔の特徴を数値(バラツキ)であらわさず「タイプ分け」としました。
 アジアの顔の特徴によるブロック(地域)を五つに分けて当てはめ、全国の1047人に対してデータを採取し比較しました。
その結果、中国北部35・1%、朝鮮半島22%、中国南部28・3%、インドシナ13・3%、南太平洋5・1%で、アイヌ似た特徴は有りませんでした。顔は先祖代々に似ているものですが、その特徴はアジアの広い地域に散らばった顔かたちだったのです。縄文時代に流れていた『北方の血筋』はどこへ行ったのでしょうか。この混血となった歴史をもう少し調べて見ましょう。

●黒潮に乗ってきた港川人
 46年前(1967)に沖縄県八重瀬町港川の海岸に近い石灰岩採石場で化石人骨4体分が発見され、放射性炭素法によって1万6千年〜8千年前(旧石器時代)の祖先と推定されました。地名から「港川人」と名付けられ、身長は男性で約153〜155p、女性で約144p。全体的に小柄で腕は細めで胴長なのに対し手は大きく、下半身がしっかりとしていたとされています。また、顎もがっしりしていて、硬いものも食べていたようです。
 この港川人の祖先は、インドネシア諸島が陸続き(スンダランド)だった頃(6万年前)、丸木船で黒潮に乗り島伝いに北上して琉球列島へ到達し、更に奄美諸島を経由して南九州へも住み着きました。
はるか一万数千年前、南九州から琉球列島では活発な火山活動が見られた。今も噴煙をあげる薩摩硫黄島がその名残りである。この火山からそう遠くない鹿児島県錦江湾一帯からは、いくつもの縄文時代草創期の遺跡が見つかっています(1万2千年前)。一万年前以上に南九州で活動していた縄文人はどこからやってきたのだろうか。本州南端の鹿児島から台湾をはるかに望むことができる与那国島まで、琉球列島は直線でおおよそ1千q。そこに沖縄から島伝いに「渡来の港川人」がいましたが、薩摩硫黄島の大爆発で、鹿児島周辺の住民は北九州や四国・本州の各地へ丸木舟で移住したと推測されています。港川人の血筋は各地へ分散して行き薄まったようです。

●渡来人の日本列島拡散
  渡来人とは、古代の頃に中国大陸や朝鮮半島から移住して来た人びとを言いますが、彼らは戦いや権力闘争に敗れ、やむを得ず舟で日本へ逃れてきた人々です。
 渡来人たちの多くは、九州北部や山口県あたりから日本列島に進入し、瀬戸内海から近畿地方へと拡大していきました。その途中で在来の縄文人と混血しつつ、弥生時代の終わりから古墳時代にかけ本州・四国・九州の主要な地域を占有しました。
 その結果、在来縄文人の子孫集団は、日本列島・両端の北海道と沖縄に分断されてしまいました。北海道に残った集団がアイヌの人々となり、沖縄に残った集団が琉球人になったのは言うまでもありませんがが、彼らとて純粋な縄文人の系統を引き継いだ訳ではなく、大なり小なり渡来人の影響を受けていた。多くの遺伝的な特徴から、本土人は渡来人の影響がかなり強く(2/3ほどか)、アイヌは縄文人の影響が極めて強く(近世なら、ほぼ大部分)、琉球人なら(半分半分か)と推定されています。
つまり、現代日本人は、縄文人という集団をベースに、弥生時代以降の渡来人が混血することによって形成されたのです。
 それではこの渡来人について、さらに学習を続けてみましょう。
最初の渡来人たちは、紀元前にさかのぼりますが、日本(九州を中心として)に「米作りや土器などを伝えた人たち」と考えられます。日本書紀(720年)や古事記が伝えるところによると、応神天皇期が最初の大規模な渡来とされているが、この頃朝鮮半島では大きな動乱が起きていた。そこから逃げるように日本へ渡来し、製鉄の技術や鉄製の農具,灌漑(かんがい)技術などを伝えた人たちがいました。彼らがもたらした道具や技術によって、それまでの生産方法や労働形態を一変させる一大改革が起こったのではないだろうか。また、馬や馬具ももたらされ、乗馬も行われるようになった。 
  この後も続く渡来人たちによって、政治にも影響を与えるような知識や文化、技術がもたらされました。7世紀には,朝鮮半島・白村江の戦いで敗れた百済からの亡命者たちが入ってきました。彼らはそれまでの日本にはない最新の技術や文化を伝えたり、朝廷の政治に大きく関わりました。渡来人の持ち込んだ技術や文化によって、当時の日本(倭国)は高度に発展したと言えます。

渡来時期を4つに区分すると・・・
@紀元前2〜3世紀;弥生時代の日本に中国大陸や朝鮮半島から渡海し定住した。
A5世紀前後;倭国(日本)の五王が治めていた時代で,朝鮮半島からの渡来人が多い。
B5世紀後半〜6世紀;今来漢人(いまきのあやひと)が最新技術をもたらした。
C7世紀;百済・高句麗などから亡命してきた。

  渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられています。また、そのルーツに関しても、黄河流域?山東半島、揚子江流域、満州〜朝鮮半島など様々で、渡来の規模とともに今なお議論の対象となっています。
  渡来人が持ってきた文化は、揚子江流域などから伝わった(水稲)作に始まり、後には漢字、仏教や寺院建築技術などを持ち込み、古代日本における文化・政権形成に大きな役割を演じたと考えられます。
  古くは縄文時代の終わり(約2千5百年前頃)アジア大陸から春秋時代やその後の戦国時代にかけての混乱と戦災を避け、日本へ渡ってきたと考えられています。彼らが最初に水稲を持ち込み(陸稲は約6千年前から存在)、いわゆる弥生時代へ繋がっていきます。
  4世紀末〜6世紀、古墳時代にはヤマト王権に仕える技術者や亡命者として朝鮮半島などから人々が渡来。4世紀後半から5世紀にかけて、ヤマト王権は属国の百済と連携しつつ朝鮮半島南部維持のために繰り返し出兵するなど大陸で活動しており、この事実は高句麗が遺した広開土王碑(高句麗の第19代の国王・広開土王の功績を記した石碑)にも記録されている。大王を中心とするヤマト王権において重要な位置を占めた者や文化の発展に寄与した者がいた。鉄器や須恵器、機織り、金属工芸、土木などの技術が彼らにより伝わり、ヤマト政権は彼らを技術者集団として組織し、各地に居住させた。また、日本列島からも朝鮮半島の方面に人・物が動いた事例もありました。2世紀〜7世紀頃において、日本から朝鮮半島に移住した倭人(倭族・大和民族)であっても、日本に亡命・帰還した際は渡来人と呼称されています。
  飛鳥時代(592〜710)には、百済の亡命貴族が日本を頼って渡来しています。

参考文献;NHK日本人はるかな旅1〜5巻

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■ 由木村の発祥はいつ頃?  
  弥生期に渡来人が水稲をもたらし、古代人の耕作地定住が始まったと推定すると、由木村の人々は2千年前から定住していたかも知れません。想像するに、当初は「村」ではなく、人びとが住み易い土地に畑作をしながら家族を養う上下関係のない集団の「ムラ又は里」が始まりでしょう。やがて渡来人が持ってきた上下関係を持つ集団ができ、これが外敵から守ってくれる豪族支配(年貢の徴収)の村へ変遷したと思われます。
  一般的な話しですが、神代の昔から農家の耕地は家族が食べる程度の広さでした。 
  農家では長男が家を継ぎ次男・三男は長じて村を去り、娘たちは同じ村内へ嫁ぐことが慣わしでした。由木のような地域内へは他村からの血は流れ込み難いと思っていましたが、由木に住まう殿様(横山党→大江→大石→北条)が代替わりする度に新しい家来達が住みつき他所の血が入ってきました。家系の一代を百年で四代と計算しますと、二千年では八十代となります。とすれば太古の由木村に住んでいた縄文人の血筋は薄まり過ぎ、今は殆ど無いかも知れません。


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