web版 第25-8号(No121)

  古い由木への散歩道

           古い由木への散歩道 その19

             由木村の戦時下農業 @

 70年前(昭和18年)の由木村は、丘陵に囲まれ、交通にも恵まれないため、村外への労働力の流出も少なく、大部分が村に定着する純農村地帯でした。
  田地の耕作面積に占める割合は36・8%と南多摩郡の平均より高かったが、農閑期にはムシロ・縄・目かご作りなどにも精を出し、乳牛・めん羊などの家畜飼育を伴った農業経営も定着していた。
  開戦後(昭和16年12月〜)戦時情勢が深刻化して外地から食糧供給の道が絶たれると自給体制の強化対策が出され、農家に対する食料増産の要請が次第に大きくなった。供出割当は年毎に大きくなるが、その一方で働き手の男は出征し、さらに農業に欠かせない肥料も不足していった。
  このような中で如何に「食料増産の任」を果たすかが、村の大きな課題となった。

■ 食料増産対策 その一
  昭和16・17年頃、農林省は食料増産農業推進隊を結成し、茨木県の内原訓練所(水戸市)で特別訓練をしていた。ここで戦時食料の花形だった甘藷(さつまいも)の丸山式栽培法を習得した中山の石井與一さん(当時34才・青年学校指導員)は、帰村後の慰労会で丸山式甘藷栽培法を発表すると、村長・助役が大いに共鳴し、ほうぼうで座談会を開いて宣伝した。

■ 食料増産対策 その二
  昭和19年1月から、食料増産の打開策として湿田の二毛作化を目指し、村内の田の暗渠排水工事を行なった。その頃の朝日新聞・都下版によると、この事業の中心となったのは、伊東八十二さん(当時は村農業会副会長で、昭和19・20年の由木村村長/下柚木の方)と佐藤留七さん(当時は由木村青年学校長で、戦後は新制中学校の校長/下柚木在住は昭和30年代まで)で、「男女青年延べ千六百名を動員して暗渠排水十五町歩を完成、全村民を督励し田植までにこぎつけた」と報道された。さらに19年度標準農村として由木村が指定を受けた。
  当時の新聞には、由木村は多角経営村として、米麦の生産のほか養蚕、藁工品、竹細工等は都下第一の生産地、また蔬菜も一、二を争う出荷地となっている。殊に無蓄農家(牛・馬・豚などの飼育)解消に力を入れ、ここ一両年のうちにはその理想が実現する趨勢にある。

■ 食料増産対策 その三
  全国民が餓死寸前に陥っていた昭和20年、南多摩随一の供出村になった由木村は、農業労働人口も減り、この時期400名の青年学校生徒も250名に減っていたが食料増産に打ち込んでいた。
  昭和20年8月の読売新聞の報道には・・・・甘藷、馬鈴薯の増産も戦局の要請に応じ上昇していった。村全体の増産は戦争と同じ速度で発展した。肥料も遠い八王子市から下肥を搬入すべく毎朝5時、佐藤校長を先頭に農兵隊の男女青年学徒が牛馬車を連ねて野猿峠を越えていった。かくて農兵隊のキビキビした活動は、不平勝ちな農民の手本としてよく困難を克服し、増産一路に邁進している。・・・・と称え、ますます祖国のために励むよう士気をあおっている。

        photo資料写真

                八王子の大空襲 A

  幸いにも由木村は、本格的な空襲を受けていなかったが、旧八王子市内は「終戦の日」の13日前(8月2日)に大空襲を受け壊滅的な打撃を被った。
  8月1日午後8時20分に警戒警報、8時55分に空襲警報が発令されたものの「米軍のB29爆撃機」は現れなかった。午後11時頃に川崎・鶴見方面が爆撃されているとの情報を入手し、市民は勝手に警戒態勢を解いた。その1時間後、B29爆撃機169機は伊豆半島から丹沢山を経て八王子上空に襲来した。
  先行するB29が2日0時45分に目標物を照らす照明弾の投下、3分後に主力部隊が大量の焼夷弾を投下した。2時間にわたって爆撃された市街域3・6kuのうち2・9kuが消失した。
  このときの投下量は1600トン(67万発)で、日本本土空襲では3番目の量。市民一人当たりの焼夷弾は10発という。
  空襲による被害は、死者445人、負傷者2千人以上、被災人口7万人、焼失家屋1万4千戸と一夜にして市内のほとんどが焦土と化した。焼失した主な建物は八王子市役所、八王子駅、東八王子駅、多摩相互病院、東京陸軍幼年学校、多摩御陵前駅、帝室林野局東京林業試験所などでした。

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           てのひら松から見た八王子大空襲 B

  8月2日のB29は八王子市街と鑓水・中山・上柚木・下柚木の上空を行き来し、波状的に爆弾を投下していたようだ。
  中山地区に住んでいた八王子二商の学生・伊藤浦次さんは、その日早めに帰宅した。空襲の予告は「7月31日夜と8月1日の昼に撒かれたビラ」を見て知っており、空襲は予測していた。しかし、実際に空襲が始まると、それは予想以上のすざましさであった・・・と中山丘陵から見た八王子空襲の様子を次のように話してくれた。
  打越あたりに落ちるB29の焼夷弾は、本当にすぐ近くに落ちる感じなのです。火の弾がパンパンといってはねるので、急に恐怖感に襲われました。「これは大変だ」と思いましてね、家から荷物を持ち出したりしました。
  だいぶ焼夷弾攻撃が下火になってから、私と兄と「てのひら松展望台」、経塚(白山神社の)ともいうのですが、そこへ登ってみました。八王子の盆地は、大きなてんぷら鍋に火がついたように炎をあげていました。それを八王子方面から避難してきた人が悲しげに見ていたのが印象的でした。空襲が終わってから、日本の飛行機が1機、何の目的か知りませんが低空で飛んでいました。
*資料;八王子の空襲と戦災の記録(総説編)

             八王子空襲を米軍資料で分析 C
 
  八王子の元高校教諭で台町に住む奥住さんが、被爆した側の目で「米軍保管の空襲作戦の報告書」を翻訳/分析し、「なぜ自分の街が標的にされ、どうやって焼かれたのか」の真相を追求した。
photo「翻訳してみて分ったのは、米軍が市街地の空襲に最も力を入れていた事実。街を焼いて人々の生活を破壊することで、心理的に打ちのめす作戦を極めて組織的に行なっていた」。
  この本は八王子空襲の準備段階から爆撃後の評価まで段階を踏んだ米軍資料を紹介。八王子上空の偵察報告や工業生産の解説、投下した爆弾の種類、出撃機の燃料、及ぼした被害の内容など詳細です。(朝日新聞記事抜粋)

*書名;〜米軍新資料〜八王子空襲の記録(付・空襲私史) 奥住喜重 著

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  古い由木への散歩道

            古い由木への散歩道 その20

                 鑓水板木の杜緑地

 江戸期の末頃、オランダの進んだ学問を取り入れて、横浜の指導をしていた江川英龍・英敏・英武という親子がおりました。
  この親子は外国から来た黒船を見て、これに負けない大きな船を作ろうと考えました。そこで鑓水地方から大きな木を運び出そうとしましたが、重くて運搬が出来ず板にして運びました。板に加工した処を「板木/いたぎ」と呼ぶようになりました。それでも大材は運び切れず船は出来なかった。更に時を経て、江川太郎左ヱ門が黒船の襲来に備えて品川沖にお台場作るためこの地区から材木を沢山運んだそうです。
  別話ですが、古文書の「伊丹木」とは、アイヌ語の「きれいな清水の湧き出る所」という意味だそうです。ここから出土した縄文土器の紋様とアイヌの衣服の紋様はそっくりだとか。ここは、大昔、アイヌが住んでいたという証拠にもなっているそうです。


外部リンク >>八王子東南部環境市民の会ホームページ
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発行 下柚木町会  編集 下柚木町会広報部

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