web版 第25-9号(No122)

  古い由木への散歩道

            古い由木への散歩道 その20

              戦車道路とこぼれ話 @

 戦車道路という話を聞いたことがありますか?。今は緑道としての散歩道ですが、左記の古い地図の道路が戦車道路でその一部分は鑓水を通っていました。なお、この緑道の北側に延長された「多摩美術大学から小山内裏公園までの箇所」は、多摩ニュータウン造成時に延長したもので戦車道路ではありません。
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■ 相模陸軍造兵廠(旧日本陸軍)
  昔の相模原は、養蚕を主とする畑作農家が多い、平坦地で広がっていました。また、東京から近く、地価の安いことから昭和14年頃、相原・下九沢・淵野辺にまたがる535万坪の広大な土地へ、軍事に係わる工業施設・商業区域・陸軍士官学校及び小中学校・公園など人口10万人が住む都市を計画しました。
  相模陸軍造兵廠の前身を相模兵器製造所と言いますが、主に戦車部品、本体、試作機の製造を行なっていて、戦車道路と呼ばれた付属のテストコースも備えていた。
  戦車本体を作っていた場所は、現在の在日米陸軍相模原総合補給廠の場所で、テストコース(戦車道路)へは、町田街道・信号;馬場十字路から入った道を出入りしていました。この道沿いには桜の古木がたくさん立ち並び住民にはお花見の場所です。
  テストコースへ行く道はもう一本あって、多摩境通りにあるスーパーアルプスから40m位北へ行った辺りから西に曲がり町田街道へ出ていたそうですが、今は見当たりません。
  ノモハン事件(昭和14年)に於いて、ソ連陸軍との戦車戦で質・量の不足(ソ連千輌/日本百輌)から苦戦しました。その反省から戦車量産が必要でしたが資源不足の日本は近代戦に於ける最重要な飛行機製造へ資源を回さざるを得ず、戦車量産は余り進展しなかった。
  それでも中国などの大陸で戦うため輸送船に積み込める軽量な中戦車を生産し、戦車道路でテストしたそうです。
         日本軍戦車
 昭和20年に、三菱重工業丸子工場で完成した重量100トン(11人乗り)の重量戦車テスト走行を試みました。しかし、その巨体は舗装道路を破壊し、草地での方向転換では車輌の腹をこすり、残念ながらテストは不可でした。
(次月へ続く)

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