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古い由木への散歩道 その24


   今昔の結婚事情くらべ ①

 バブル景気のはなやかな頃(20~30年位前)のテレビ番組でしたが、芸能人同士の結婚式が中継され、その豪華な披露宴にはびっくり。もっとも費用はテレビ局持ちだったのかな?。当時、一般の若いカップルの新婚旅行先がハワイやヨーロッパなどと海外旅行が多くなり、挙式・披露宴・新婚旅行にはお金をかけていました。
     
 現在60~80才代の方々は、その昔、結婚シーズンになると親戚や勤め先の若い方からお招きをうけ、年に数回は市民会館やホテルでの挙式へ参列した記憶がある筈で、黒い礼服のタンス出入りは忙しかった。それがどうゆう訳か、ここ10数年間、私の黒い礼服は不祝儀に着用だけで結婚式のお招きにはとんと無縁でした。
 そこで最近の結婚事情が気になりチエックしてみたら、まず結婚しない人がグンと増えていました。さらに、男女とも、いいトシまで結婚しない人が多くなったことです。
 最近ですが、近所の親しい若者が結婚式を挙げました。町会の懇親会席上のことでしたが、詮索好きの先輩が彼に聞いたところ、百数十人を招いた披露宴と聞き、同席一同がそれは今どき珍しい!と感心しきりでした。 
 近年のカップルは、結婚式を挙げることがかなり少なくなったらしいので、次の儀式と事情を調べてみました。
結納…つい10年位前までは、結納を経て挙式の運びが常識?と思っていました。 
 最新のアンケートでは「結婚10年以上のカップルは結納をしたが41%」 ? 「結婚2年未満では18%」までとかなり低下。新婚ホヤホヤの「結納しない派」の理由は、無駄、節約のため、お金がない、面倒、形式ばっている、必要を感じないであり、また親同士にも結納への拘わりがないそうで「あんな金のかかることをする必要はない」という回答が多いとか。
結婚式…入籍するカップルの約半数が挙式や披露宴を行っていません。入籍したが結婚式をしないカップル達を「ナシ婚」層と呼ぶそうです。その理由は、大きな挙式はお金もかかるし、来る人へ祝儀等の負担をかけるから、準備も大変だし気疲れするから、女性側では形にとらわれるのはイヤ、挙式の費用を家具購入や新婚旅行へ使いたいなど。
更には妊娠中の「授かり婚」だからと。
        

【由木地区の昔の結婚と結婚式】

『結婚相手と仲人』

ハシカケ…この家にこんな娘さんがいるけどどうよと、ナコウドグチ(縁談)を持ちかける人をハシカケという。ハシワタシ、クチキキとも呼んだ。ハシカケは、世話好きで顔が広く、家族構成や人なりなど、方々の家の事情によく通じた男性で、どこの集落にも一人や二人はいたという。 
 堀之内の寺沢には、Aさんというハシカケをするのが好きな人がいた。この人は交際範囲がとても広く、弁がたってハシカケに向いている人であった。よその集落であっても、知り合いのつてでその家の事情を聴き、釣り合う相手を紹介した。Aさんのハシカケで加住町から嫁いできた人もいたという。
 昭和30年代には、恋愛結婚は珍しかった。昭和32年(1957)4月に結婚した堀之内の男性の場合、前年の秋ころに親から「隣部落のBさんという人がオメエの嫁の話を持ってきたぞ」とクチキキの話を聞いた。本人の意志というよりは、家同志の話であったので、その話は進み、結婚した。
 娘の年齢よりも、両親の年齢など家庭の事情を考慮してナコウドグチを持ってくることもあった。嫁選びは、その家の手助けになるかというのが一つの基準だった。そのため、女性は青年学校で和裁の授業を受けた人が多かったという。
 未婚の女性が何人もいる家は敬遠された。鑓水出身の女性によると「小姑は鬼千匹」といわれ、戦後、長男が結婚する際に、下に未婚の女性が長女を筆頭に四人も残っていたので、相手方から反対されたという。
 ハシカケは、ゴシュウギ(結婚式)の席には必ず出席し、その後も年始に行くなど、長く続く付き合いが多かった。(部落によっては短い付き合いの慣習もあったそうです)

仲人…仲人は、婿方と嫁方の双方で立てる。ハシカケが仲人を兼ねる場合はほとんどない。ハシカケは、あくまでも縁談を持ちかける人である。仲人は、代々この家に頼むと決まっている家もある。また、とくに決まっていない家では、集落の主(ぬし)だった家や日常的に付き合いがあって信頼できる人に頼む。
 下柚木では、仲人はオヤブンといい、年齢が近い人の場合は兄さんと呼んだという。仲人との関係は、ハシカケより長く続いた。盆と暮れにはツケトドケ(中元・歳暮)をする。堀之内では、中元にはそうめんを、暮れには塩鮭を贈ることが多かった。この鮭を田植えの時期に食べると重労働の良い塩分補給にもなり、とても美味しかったという。ツケトドケをする期間は特に決まっていないが、四〇年以上続けている家もある。
結婚式ゴシュウギ…結婚式のことをゴシュウギといった。農家では、冬の農閑期にゴシュウギを挙げることが多かった。自宅で行っていたころは、ふすまを取り払い座敷を一続きにした。昭和30年台を過ぎると、農協に設けた式場や結婚式場で行うことが多くなった。自宅でゴシュウギを行なったのは、堀之内では昭和30年(1955)、越野では昭和40年(1965)が最後であったという。ゴシュウギは、時代や家によってかなり違った。また、オダイジン(お大尽)の家とそうでない家では差があったという。戦時中は、物資不足の中でのゴシュウギであった。戦局が厳しくなったころに嫁いだ女性は、オダイジンの家では物々交換で箪笥などの嫁入り道具を用意していたが、自分の家では嫁入り道具も買えず、御茶箱に着物を入れて持ってきただけであったという。ゴシュウギでは、迎えに行く嫁方と、婚家の双方の家で宴席を設けるのが一般的であった。
 昭和29年(1954)に結婚した堀之内の男性によると、現在は隣りの人が結婚しても話すらないこともあるが、当時は嫁方でも一席設けて組合や親戚に披露しないと、この人はどこの誰だか分からないといわれ、婿も嫁も地域社会から認められなかった。特に昔からの固い家では、きちんと御披露目しなければいけないという風潮があったという。(次号へ)

引用…新八王子市民族調査報告書 第2集
「八王子市東部地域 由木の民族」
※備考…『結婚相手と仲人』の引用文を、昔を知る町内の複数の方に読んで頂きました。部分的に異論はありましたが、これはルールではなく、各部落の慣習だからと理解して頂きました。

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