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古い由木への散歩道 その24


   今昔の結婚事情くらべ ②

【由木地区の昔の結婚と結婚式】

(二)結婚式・・・前号より続く

 結納と嫁迎え…縁談がまとまると仲人と婿が結納品一式を持って嫁方に行き、式の日取りなどを決めてくる。ゴシュウギの当日は、仲人と婿、組合の代表で嫁方へ迎えに行く。兄弟や血の濃い親戚が一緒に行くこともあった。嫁方では、お酒や料理を出す。婚家での宴席に比べるとこじんまりしたものであった。嫁方の宴席では、アイサカズキ(注…夫婦や親戚間で交わす盃のことであるが、現在は夫婦の三三九度に簡略化)はやらない。
 宴席が終わると、嫁を連れて婚家に向かう。嫁の実家からは、兄弟や親戚、組合の代表が付き添った。由木地区では遠方から嫁ぐ人は少なく、隣村や近所から嫁ぐ人がほとんどであったので、歩いて向かうことが多かった。
 花嫁が婚家に到着するのは夕方である。戦前は、懐中電灯などなかったので、手丸提灯を付けて足元を照らした。この提灯行列を見かけると、「どこそこの花嫁行列だ」と言い合ったものである。婚家でも入口に家紋の入った提灯を提げて花嫁を迎えた。
嫁入り道具…ゴシュウギの少し前に嫁入り道具が婚家に届けられる。嫁入り道具は、縁側から見えるように飾ってあった。これを仲の良い友達同士で見に行くのが、女の人の楽しみであった。
 昭和28年(1953)に鑓水から上野町に嫁いだ女性の嫁入り道具は、布団二組、鏡台、箪笥、針箱、たらい、裁ち板、張り板、伸子針、ミシンなどあった。着物は、高機で織った内織りの白地を染めて仕立てたものである。近所の人に頼み、嫁入り道具を牛車に乗せ莚をかけて縄で縛りつけ、婚家まで運んだ。
婿と嫁の衣装…大塚の日向に嫁いできた昭和4年(1929)生まれの女性は、振袖を着て、髪は百草(日野市)にいた髪結いに結ってもらったという。翌日に晴れ着姿で日向の講中を一軒一軒回るので、ゴシュウギの夜は、髪を解かずに箱枕をして長じゅばんで寝て、翌日髪を直してもらった。
 また、大塚の日向では、地区でゴシュウギ用の留袖一式を揃えてあった。当時は、花嫁衣裳の準備ができない女性もいたため、講中で揃えて貸したのである。嫁は実家に届けられた借りた留袖一式をゴシュウギと翌日の顔見せに着た。式場結婚式になって、この留袖の一式も必要がなくなり、講中の女性で分けた。
 昭和二十年代後半になると、婿は洋装(モーニング)が多かった。昭和二十八年(1953)に鑓水から上野町に嫁いだ女性は、モヨウ(裾模様を染めた紋付)を着て、婿はモーニングであった。  
 また、昭和二十九年に式を挙げた堀之内の男性は、婿がモーニング、嫁は江戸褄の留袖で、髪は鬘(かつら)で日本髪に結い、角隠しをつけた。当時は、自分の髪で日本髪を結いあげる人はほとんどいなかったという。ゴシュウギの衣装は、弟や妹に譲ることもあった。
 アイサカズキから宴席まで…越野の中村では、嫁が婚家に入る時、男の子と女の子が棒状にした藁束の松明(たいまつ)を持ち、先に火を付けてから消して下に下ろして交差させる。嫁はその上をまたいで入ったという。大塚で昭和二十九年に結婚した女性は、トンボグチ(玄関)で一つかみ程度の稲わらの束に火を付けて燃やし、その灰をまたいで入ったという。
 上柚木では、婿は縁側から、嫁は仲人がついてトンボグチから入り、座敷で一緒になった。
 越野の中村では、座敷にはいると、中央に婿と嫁が向いあって座り、上座に仲人が座る。左右にそれぞれの親戚の席があった。組合で口上が上手な人が音頭をとって、婿と嫁が三々九度のアイサカズキを交わした。
 オチョウ(男蝶)、メチョウ(女蝶)と呼ばれる晴れ着姿の男の子と女の子がお酒を注いだ。オチョウ、メチョウは、組合の小学校二年生か三年生くらいの、両親が健在の子どもに頼んだ。
  
 アイサカズキの後、嫁と婚家の両親の間でオヤコサカズキを交わすこともあった。アイサカズキが終わると宴席になる。宴席には、嫁に付き添った兄弟や親戚、組合の代表と婚家の親戚、組合が出席する。 宴席を仕切る人はオショウバンと呼ばれ、二人で下座に座った。当時は近くから嫁ぐ人が多かったので、嫁方からも遠くから来る人もおらず車で来る人もいなかったので、皆、酒をよく飲みとても賑やかだった。普段は酒を大っぴらに飲める機会がほとんどなかったので酔っ払いも出て、宴席は無礼講だったという。 
 宴席の目的はお披露目にあり、アイサカズキだけでは場が固くなってしまい嫁の披露にはならないから、婚家では、酒と馳走を振る舞うのであるという。親戚など招待する人が多い場合、宴席を二回に分けて行うことがあった。越野で昭和四十年(1965)に結婚式を挙げた男性は、八畳と十畳の座敷を通しにして、親戚や代々その家の仲人をやっている家の人など四〇人ほどを招いて宴席を設けた。それが終わった後、夜の八時ころから友人や近所でちょとした付き合いのある人を二〇人ほど招いた。酒が入って客がなかなか帰らず、席の入れ替えがとても大変であったという。
   
宴席の御酌…宴席では組合の二〇歳前後の若い娘が頼まれて御酌をした。娘は、銘仙の着物を着て御酌に行ったものだった。また、御膳を出すなどのお給仕は婚家の娘がやったが、人手が足りないと近所の若い娘に頼んだ。お給仕をする時は、畳のへりを踏んではいけないとか、お膳は息がかからないように顔より高く持つとか言われた。
 ゴシュウギは障子を開け放って外から誰でも見ることが出来たので、お給仕をしている娘を見て、この子がお嫁さんにいいとか見定めをする場でもあったという。(次号へ)

引用…新八王子市民族調査報告書 第2集
「八王子市東部地域 由木の民族」

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