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古い由木への散歩道 その24


   今昔の結婚事情くらべ ②

【由木地区の昔の結婚と結婚式】

(三)結婚式・・・前号より続く

組合とゴシュウギの手伝い;ゴシュウギは組合が手伝った。組合の女性は、ゴシュウギがあると前日から御勝手仕事の手伝いに行った。当日も女性は宴席に出ず酒の燗などで忙しかった。男性はお燗番をやることもあったが、当日は手伝うことはなく、時間通りに婚家へ集まって宴席に出席した。
 結婚式や葬式を自宅で行っていた時分は、いろいろな手伝いをしてくれる組合はとても大切で、普段からお茶を飲んでいても同じ組合の人を見かけると声を掛けて一緒に飲んだり、何かにつけて貸し借りをしたりと、普段から濃い付き合いであった。

    illustration

ゴシュウギの料理と魚屋(料理人);料理は、一人ひとりに猫脚膳や高足膳で出された。家によって献立は異なったが、吸物と煮物はつきものであった。堀之内では、宴席の途中でハマグリの吸物が出された。これは魚屋が作ったもので、ハマグリは二対が開いてぴったりと合わせられて入っていた。宴席の最後に細く長くという意味で蕎麦を出すのが決まりだった。
 料理は、婚家で拵(こしら)える場合と魚屋が拵える場合があった。魚屋が拵える場合でも、材料は婚家にある物や親戚が持ってきてくれた物を使った。鑓水のC家では、谷戸に三、四人料理上手な人がいて、口取りからお膳の料理まで作った。越野で昭和40年(1965)に結婚式を挙げた男性は料理を八王子の魚屋へ頼んだ。当日はトラックで来て、食器など何から何まで用意してくれた上、宴席の料理も全てやってもらったので、組合の女性にお勝手仕事を頼むことはなかったという。

引物の折詰;御膳には、ヒキモノ(引物)の折詰と鰹節(背と腹一対)をつける。折詰は手を付けずに持って帰った。ひものは魚屋が作ることが多い。中身はきんとん、羊羹(ようかん)、かまぼこなどで真ん中に大きめの鯛の尾頭付きが入っていた。
 折詰の大きさは、尺三寸、尺五寸、尺八寸などその家の財力によって大きさが変わり引き物にも経済力の差が出たという。折詰の料理は、普段は口にすることが滅多にない御馳走だったので、家族がとても楽しみに待っていた。引物の鯛の骨はよい出汁が出て、翌日のみそ汁の出汁になったという。

ゴシュウギの膳椀;ゴシュウギと葬式の御膳が全部揃っている家は少なかった。
 講中には共有のワングラ(椀倉)があり、三々九度の盃や御膳、座布団などはそこから借りてきた。例えば、上柚木の中郷のワングラは四畳半くらいの大きさで、御膳や座布団が入っていた。御膳は、黒塗りと朱塗りの二種類があって、葬式には黒塗りの御膳を、ゴシュウギには朱塗りの御膳を使った。

嫁の組合回り;越野の中村ではゴシュウギの翌日、嫁が訪問着か紋付を着て、近所のしっかり者のおばさんや年配者に付き添われて講中の家を回った。半紙を縦に二つ折りにして、「進上と自分の名前」を書いて水引をかけたものを渡した。これを名刺という。
 鑓水の板木では、ゴシュウギの後、嫁はゴシュウギの服装で組合の一番年長の女性に連れられて、組合と寺を回り、神社に参る。現在でも略式ながら行われている。

オンナブルマイ;女性は、お勝手仕事などでゴシュウギの席には出席しない。そのためゴシュウギが終わり、嫁が落ち着いたころにオンナブルマイ(女衆振る舞い)をした。
 越野の中村では、組合の女性を招いて赤飯や煮物などを振る舞った。越野では、昭和二十六年(1951)にDさんが結婚したとき、当時の区長さんから「お宅が先例になってオンナシブルマイをやめてくれ」と頼まれ、それ以降ほとんどやらなくなったという。

■ 恩方の結婚式から

戦時中のゴシュウギ
;戦時中の結婚式は物資不足の中で行われた。多くの男性が招集を受け戦地へ出征したため、男性に比べ女性が圧倒的に多かった。「今の時分、相手が来てくれるだけいいと思え」と言われて結婚した女性もいた。ゴシュウギは家で配給のお酒を飲んだだけで、花嫁はもんぺ姿であった。
 昭和十九年(1944)にアシイレの仮祝言を挙げ、終戦後に本祝言を挙げたGさんは軍服、花嫁は黒紋付きを着た。アシイレの翌日には軍隊へ戻った。・・・・中略・・・・

終戦後の結婚式;昭和二十一年の話ですが、ゴシュウギの御膳の料理は、Gさん(前述の)が教練の教師を勤めていた学校の生徒の情報で小田原から調達したが、統制が厳しく、婚家まで運んで来るのが大変だった。また当時は戦時中より物資不足が深刻な状況であった。
 そのため嫁入り支度が大変だったが、母親が苦労して整えてくれたという。ゴシュウギで着た振袖は、衣料切符で購入できなかったので、サツマイモやじゃがいもなどの食料と交換して手に入れてくれた。嫁入り道具の箪笥(タンス)は、知り合いの家具屋が実家に疎開させておいたものをお願いして、物々交換で譲ってもらったという。 [完]

引用;新八王子市民族調査報告書
第1集「八王子市西部地域 恩方の民族」
第2集「八王子市東部地域 由木の民族」

※編集後記
◆調査報告書を読むと農家が多い地区の昔の結婚式のしきたりは由木も恩方も大きく変わっていないような感じです。昔は皆貧乏で特に終戦後は食糧難の時代が続いていました。

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