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古い由木への散歩道 その25


      今昔のお葬式 ②

 3班・80才前後の方に、昔の葬式の話を聞いたことがあります。 講中の方々と一緒に棺桶を担ぎ、お墓を掘って弔った経験があると言われました。写真は立派なお葬式の模様ですが、現在のように火葬ではなく大変だったろうと想像します。
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 「野辺の送り」とは、葬儀の後に火葬場や埋葬地まで葬列を組み、故人を送っていくことを言います。野辺とは山際のことで、由木では丘陵の裾野に旧家のお墓が並んでいますね。昔の由木の葬儀の多くは、自宅で行い遺体の埋葬や火葬を行う場所へは親族や地域の人が棺桶を担いで移動しました。
 野辺の送りに参加する人は、それぞれに役割が振り当てられ、役割に即した持ち物を持って参加します。役割は、燭台、香炉、位牌など仏教の教えに沿ったものから、地方によってさまざまなものが加わります。
 葬列において重要な役割を担う六役は、位牌持ち、飯持ち、水桶持ち、香炉持ち、紙華持ち、天蓋持ちとなっています。
 以下の文は「八王子市東部地域・由木の民族」から抜粋し、昔の由木の葬式を紹介します。

 一、葬式の準備
死亡の知らせ…亡くなったという一報が入ると、組合の者がすぐに死者の家に集まり、講中もしくは谷戸や組合で役割を分担する。
越野では、組合で親戚へフレ回る。サタとも言い、通夜と葬儀の日程等を伝えた。 
 フレは、間違いがあるといけないので二人で行く。必ず二人で行くと決まっているため、男性が二人で歩いていると、葬式があるのかと言われたこともあった。
手伝い…鑓水には六つの谷戸があり、その谷戸の中にある組合で手伝いを分担した。大芦谷戸では、組合だけでは皆親戚になってしまい、動ける人がいなくなるので、谷戸全体で手伝う。
葬 具…鑓水では、檀那寺の永泉寺(鑓水)から葬具を借りた。ダンバゴという箱の中に入っており、組合が集まる時に寺へ取りに行って、二人で担いできた。葬式に使う幕や龍(たつ)の口(龍頭ともいう)などが入っていた。現在のような祭壇ではないが、雛壇のような簡易な檀があった。天蓋は色紙を張り替え、竹の竿に吊るし、棺のうえにかざした。竹に半紙を下げた織旗も作った。 
膳 椀…上柚木では、一〇膳も二〇膳も個人宅で持っていられないので、各講中で椀倉を持っていた。椀倉には、親椀や膳、座布団などが入っていた。中郷の「親椀と膳」には赤と黒があり、赤は結婚式の時、黒は葬式の時に使った。葬式の時に使う親椀は上げ底になっていて、その中に白飯をちょこっと盛って、葬式のシメに出した。借り賃というのはなかった。使う時は、リヤカーで運んだ。
二、葬式
湯 灌…上柚木では、湯灌に際して小さく切った豆腐にちょっと醤油を付けて食べ、清めの酒を飲んでから行う。親戚が二〇人から三〇人くらい集まるので、豆腐を二、三丁は用意する。
施鬼飯料…上柚木の辺りではもう行われていないが、葬式が自宅で行われていたころは、「施鬼飯料」と書いた半紙を座敷に吊るし(貼り付け)たり、七日目の法要の時には賽銭を回したりしていた。平成24年に相模原市緑区千木良で行われた葬式では、今もしていた。「施鬼飯料」と言うのだから赤飯だったろうとのことだが、大正6年生れの方は現金で持って行き一、二万円ほどだった。実家や本家、兄弟などの血縁が濃い者が持って行く。
出 棺…棺は、ガンバコとも言った。
 越野の吹上では、出棺の時に鉦をたたいて庭先を左回りに三回まわって出た。墓穴に棺を下す時には、鉦をジャラ打ちした。ジャラ打ちとは、けたたましく鳴らすことである。葬式の時にたたく鉦と念仏の時の鉦は同じ物で、玉泉寺に預け使う時に借りてくる。
穴掘当番…鑓水では、穴掘り当番のことをメドバンという。二人が一般的だったが、土葬だったころや家の格によって異なり、多い時は六~八人だった。妊婦がいる家は役から抜けた。大正八年(1919)生まれの方によると、板木谷戸では土葬の時の棺は座棺が普通だったが、大尽の家では寝棺だった。寝棺は大きいので穴を掘るのも大変なため、メドバンが八人は必要だった。昭和一六年(1941)生まれの方によると大芦谷戸では土葬の時も寝棺だった。
 かっては重要だったメドバンの役も、火葬になると石材店が墓を開けるので、大芦谷戸などではすでに止めている。東谷戸や板木谷戸、日陰、子の神谷戸などでは、墓掃除を行う役として残っている。
 越野の下根では、穴掘り当番を四人ずつにした。穴は、長さ二㍍、深さ二㍍、幅一㍍くらいの大きさだった。二十歳代の者でも掘るのは大変だった。
穴掘帳面…越野の吹上の穴掘帳面は、葬式のあった家で持っていて、次の葬式が出るとその家の人が、前に葬式があった家へ取りに行くものだった。平成十三年(2001)の葬儀後、取りに来る家がないので穴掘帳面はそのままになっている。現在預かっている家では、ゆくゆくは檀那寺である玉泉寺(越野)で保管してもらおうと思い、寺の承諾を得ている。
 穴掘帳面は三冊あり、それぞれの表紙に「大正六年(1917)葬式穴掘当番扣之帳 吹上講中」、「昭和四五年(1970)葬儀穴掘当番控帳」等と書かれている。大正六年の表紙より古い明治二十三年(1890)の記載がある傷みが進んだ表裏6枚は、合冊したものと思われる。また、「大正六年改正 壱回四人宛」との記述があることから大正六年は区切りとなる年だったと考えられる。明治分の表裏6枚には当番が三人となっているが、四人への人数変更理由の記述はない。
 四人で担当していた当番の人数に変更があったのは、「昭和四十九年(1974)拾壱月壱日」からの当番二人の記載である。三冊目の穴掘当番帳は昭和四十五年から新規となっており、土葬から火葬に変わったのは、このあたりと思われます。
埋 葬…土葬のころには、次のような流れで埋葬が行われていた。
 鑓水では、棺を埋めるとその上に、土を盛り上げた。一年くらい経つと棺が腐ってへこむからである。埋めると、持ってきたものをその前に立てた。龍頭や旗は壊し、その竹でシャバグネを作った。シャバグネとは、エイガシラ(ヘイガシラ)という結び方で、竹を交差する所を四十九ケ所結わえたもののことである。
 越野の下根では、棺を埋めた墓の前方に、六角塔婆を立てた。六角塔婆は、一〇×一〇センチの角材で、長さは五〇センチくらいだった。他に七本塔婆も立てた。
納 骨…火葬になって葬式の流れも変わり、次のように行われている。
 鑓水では、葬式が終わってすぐに納骨している家が多い。もちろん、すでに墓のある家だからできることで、墓のない家はこの限りでない。火葬後、寺へ行って初七日の法要をしてからお骨を埋ける。越野の吹上では、焼き場で骨になるとそのまま墓へ行って納骨し、檀那寺である玉泉寺で七日の法要(繰り上げ法要)をし、家へ戻りダンバライ(檀払い)となる。    

 下柚木町会の馬場坂に、先祖代々から住む方に昔の葬儀のことを聞きました。ここの講中には、南側の馬場坂に椀倉があって結婚式や葬式に使う御膳や御椀などがありました。死亡の知らせが入るとまず講中長に報告し、講中長の指示で、メド番(穴掘り)4人が決められ、葬具一式は永林寺から借りました。穴掘台帳は明治時代からの記録があり現存しています。
 なお、各習慣は他の村とほぼ一緒だったとか。[完]

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