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古い由木への散歩道 その27


女の仕事「上柚木・飯沼ヨ子さんの半生」

 飯沼ヨ子(よね)さんは、大正六年(1917)年に上柚木中郷の井上家に生まれた。上柚木は上郷(神明)・中郷(中央)・下郷に分かれており、さらに中郷にはそれぞれ七、八軒の家々で構成される和田・原田・池の尻・愛宕の四つのクミアイ(組合)があった。
 ヨ子(よね)さんが生まれた当時は電気が通っておらず、自転車もなく、新聞を取っている家も一軒ほどしかなかった。
 ヨ子さんは数え年十四(満十三歳)でガッコウサガリ(卒業)となって、すぐ羽村(現羽村市)の製糸工場で養成工となった。同じ上柚木・中郷の愛宕の飯沼家へ嫁いでからは、屑材挽きや莚(むしろ)織りなどさまざまな仕事を経験した。ヨ子さんによれば、上柚木では女たちはノラ(野良仕事)をしなかったという。女の仕事はオカイコや糸引きが主だったからである。ここでは飯沼ヨ子さんの半生から、当時の上柚木の女性の仕事を振り返ってみる。
生家と養蚕…ヨ子さんが羽村の組合製糸工場に養成工として行くまで、生家の井上家では養蚕を行っておらず、昭和五年(1930)ころになって養蚕を始めた。そのためヨ子さんには、子どものころにオカイコの手伝いをした経験はない。
 生家(井上)では養蚕を始め、作業は繭(まゆ)の出荷までで、糸引きまでは行わなかった。嫁ぎ先では糸引きまで行っていた。飯沼家には娘が一人いたので、足踏みの機械を使って繭から糸を引いていた。また、一時期は他所からも糸引き女性を雇っていた。
      
製糸工場養成工(満十三歳)…当時は尋常小学校六年生までで、学校を下がる(卒業)と、高等科に進学するのは半数くらいで残り半数は働いた。また、高等科卒業後、さらに女学校へ進むのはオダイジン(お大尽)の家の子だけであった。
 ヨ子さんは前述のように小学校を卒業後すぐに働きに出た。最初は羽村の製糸工場で一年間養成工として働いた。それまで上柚木を出たことはなかったので、初めて上柚木を出て多摩川を渡る時には、「これが海っちゆうもんか」と本気で思ったという。
 羽村では寮生活を送った。養成工とは見習いの女工で、女の先生が糸引きの指導をしてくれた。一年間養成工をやれば糸引きができるようになった。養生工の給料は年俸であり、一年分はすべて親に支払われた。養生工自身にはお金が来なかった。
 製糸工場の糸引き機械は、自家用の機械よりも枠がたくさん付いていた。自家用の糸取り機械は鍋で繭を煮て繭を浮かせ、二つの枠に糸を巻き上げるが、製糸工場の機械は枠が四つも付いていて、瓢箪型(ひょうたんがた)の大きな鍋で繭を煮た。鍋は幅が50センチ位あり、向かって左側には糸を通す輪(集緒器/しゅうちょき)が四つ付いている。この輪に糸を通して引き上げ、四つの枠に巻き取る。作業場では常に繭配りの女性が車を引きながら女工の間を歩き、女工の繭のなくなり具合を見て、空になった桶が外側に出ていると繭の入った桶を置いていった。繭の単位は「一升」「二升」と言ったので、桶には一升の繭が入っていたと思われる。
・・中略・・・
 養生工の監督は男の人で、この人が養成工を井の頭公園に連れて行ってくれたことがある。当時の井の頭公園は杉山ばかりであった。製糸工場には青年学校が併設されていたので、ここで仕事を終えてから勉強ができた。また、製糸工場とは関係なく自主的に生け花や裁縫を習うものもおりヨ子さんも仕事が終わると羽村駅の近くに裁縫を習いに行った。
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鑓水組合製糸工場とお蚕雇い(満十四歳)… 
 羽村で養成を終えると、その後は鑓水の組合製糸工場へ八年くらい勤めた。そこにはたくさんの娘たちが通っていて、上柚木からは七、八人の娘たちが行っていた。住み込みではなく通勤であった。
 繭から糸を引き終えると蛹(さなぎ)が残る。蛹を鍋のそばに置いておくと、回って歩いている人がこれを集めていった。羽村の組合製糸工場ではどこに蛹を出していたか知らないが、鑓水の組合製糸工場には松木の「吉田金魚屋」がよく蛹を取りに来ていた。「吉田金魚屋」では鯉の養殖も行なっていたので、蛹は鯉の餌として用いたようである。
 鑓水の工場では、生糸を「大島に出した」と聞いていたから、相模原市大島の「漸進社」に出したのではないかという。
 オカイコが忙しい五月には鑓水の工場も休みになるので、仕事を世話してもらってオカイコのゴガツヤトイ(五月雇い・蚕雇い)に行った。小山(相模原市)の萩原家や宮下の原家へ行った。このあたりはどこの家でも大きくオカイコをしていた。平らな台地でクワバラ(桑園)がたくさんあり、養蚕の規模も大きかった。そのため五月の忙しい時期には臨時の働き手を雇った。こうした蚕雇いの世話をしてくれる人が、南大沢にあった。
 その後、景気が悪くなったためか、あるいはオカイコをしなくなったためか、鑓水の工場はつぶれてしまった。そこで再び羽村の工場へ勤めに出た。
・・・中略・・・・
 満二十二歳から五年間を羽村の組合製糸工場の工賃女工として勤めた。
屑材挽き(満二十七歳ころ)…ヨ子さんは、二十七歳で飯沼家に嫁いだ。嫁いだばかりのころ、下柚木の野猿街道沿いにある飯田製板という製材屋へ屑材挽きに行った。製材所では屑材がたくさん出るので、これを鋸で挽く仕事をした。上柚木から籠を背負って原を越えて歩いてずいぶん通った。これまで羽村や鑓水の製糸工場に勤めていたので、百姓や山仕事の経験はなく、鋸を挽いたこともないため、最初のうちは上手に挽けず苦労した。
 南大沢の方からも女性が一人屑材挽きに来ていたが、この人は家で百姓をしていたので体もガトウ(頑丈)で鋸挽きが上手かった。鋸で挽いた屑材は製材所に納め、自家用にもらえることは少なかった。
莚(むしろ)織り …飯田製板の仕事を辞めてからは家で莚織りを行なった。上柚木は莚織りや縄綯(な)いの副業が盛んなところであった。昼は莚織りの仕事、縄綯いは夜の仕事であった。ヨ子さんは七人兄弟の二番目だったので、子どものころ、良く手伝っていた。
・・中略・・
莚はリヤカーの荷台に積み、三つ目(町田市小山)まで子供を乗せ実母と出荷に行った。
ウズラの卵拾い…五十五、六歳のころから、野猿峠の下にあるウズラ屋でウズラの卵拾いの仕事をした。ウズラ屋では、浜松からウズラのひなを連れて来てケージで飼って卵を産ませていた。その卵を拾い集める仕事だった。 
 送迎バスがあり、出勤時と退勤時には送り迎えをしてくれた。ウズラ屋が廃業した後は越野へウズラの卵のパック詰めの仕事に行った。場所は由木小学校の下(シモ)あたりであった。ヨ子さんはこの仕事を七十二歳まで続けた。それ以後は勤めに出ず、庭や畑の手入れなどをして過ごされている。

文献…八王子市東部地域 由木の民族

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