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古い由木への散歩道 その28


   メケイ・メケエ(目籠)作り

 旧由木村では、かつて冬の農閑期の副業として、メケエと呼ばれる六つ目の籠や莚(むしろ)・縄などの藁工品の生産が盛んだった。『南多摩の副業』(東京府南多摩農会 大正6年)によれば目籠作りは堀之内・東中野・大塚において盛んで、大正5年の由木村全体の生産額が32万個・9千円、従業者は3千9百戸・1110人にのぼった。
 藁を使った縄綯い・莚織りなどの生産は、特に下柚木・上柚木・中山・南大沢・越野が盛んで、特に莚は「由木席(莚)」の名があるほど古くから良品を産していた。また「由木村郷土資料集」(由木西小社会科研究部 昭和34年)によれば昭和34年頃、由木村全体の目籠の生産額は3~4百万円、多い家では年間20万円もの収益を上げていた。由木において目籠・藁工品は、養蚕と並んで大変重要な現金収入の道であったことが知れる。
photo  由木は耕地が少ないため、自給自足がやっとの生活を送っていた。由木村では水田があってもそのほとんどが小作で、収穫した米の半分かそれ以上を小作年貢として地主に納めなければならない。そのため、メケエ(目籠)や莚織りなどの副業をやらないと農家は食べていけなかったという。
 なお、目籠とは自生する篠(篠竹。標準名アズマネザサ)を伐り、四つ割りしてヘネ(皮)を剥ぎ、六つ目に編んで作るもので、当地ではメカイ・メケイなどと称する。副業としての目籠作りは、文化年間(1804~1817)の頃、宇津貫村(現八王子市みなみ野・兵衛付近)で発祥したといわれ、嘉永年間(1848~1854)に由木地域に伝わり、さらに多摩村(現多摩市)へ、そして鶴川(現町田市)・七生(日野市)・稲城へと通婚などによって伝播したという。また嘉永年間に由井村から由木へ目籠を習い伝えたのは、田口久兵衛という人物であった。(佐藤広「八王子の民族」揺藍社 1995)・・中略・・・
目籠の種類…メザルの編み方は「ロッカクドメ」といって、六角形の目で編む。
宇津貫で作っていたようなニアゲザル(魚を釜で茹でるときに使う横回しを立ち上げない笊)は由木では作っていなかった。欲しいときは仲間から分けてもらった。
このあたりで作るメザルは10種類くらいあり、寸法によって種類が違った。景品に使ったものは安物で、チュウヒラという。ジョウメズとは「上」というだけあって良い物で、オヤ(大)・ナカ(中)・コ(小)の三枚組だった。当時の伝票には「上目津」と書いてあった。ジョウメズは景品にはしない。組で使うものだから、ばらしては意味がない。ちなみに田口家で保管されていたジョウメズ(オヤ)の寸法は、直径270ミリ、高さ85ミリ、縁巻の太さ12ミリだった。・・・中略・・・・・
里山農業クラブのメカイ作り…由木を活動拠点とする「里山農業クラブ」(以下「里山クラブ」と表記)は女性会員を中心として、現在も目籠作りが行われている。かつて目籠を作っていた土地の人たちから作り方を習い、篠が採れる時期になると、週一度集まって目籠を作っている。四月末に開催される南大沢のフラワーフェスティバルや八王子のいちょうまつり、地域の幼稚園のバザーなどで販売され、収益は会の活動費の一部となっている。また、近年郷土資料館や公民館などで開かれる講習会などでも目籠の作り方を教えている。以下、昔から目籠作りの経験者でもある平方勝次さんを中心として里山クラブの方々からお聞きした目籠作りを紹介する。
篠を切る場所とシノヤ…昔は堀之内あたりには二、三メートルになるような篠はなかった。フチマキ用の太くて長い篠は、遠くまで採りに行くか、買わなければならなかった。
平方さんは昔、片倉の共有林(今の東京工科大学付近)まで採りに行った。片倉の共有林は広く、手入れが行き届かないところがあって、長い篠が採れたからである。フチマキ用の太くて長い篠も採れた。片倉の共有地は鑓水の御料林の近くだった。
津久井にもいい篠が採れ場所があるので行った。篠は畑の土のような良い土よりも、砂利の方が良いという。津久井湖畔は砂利だからよい篠が生えた。津久井には国有地があり、しかも山が急で下草刈りができないため、竹や篠がたくさん生えていた。 
津久井からメカイの材料の篠を仕入れてくるときは、長い篠を車に載せて津久井から山道を牛に引かせて牛車で運んだ。相模川にかかる小倉橋という橋を通って行った。昔はそこしか道がなかった。
堀之内にはシノヤ(篠屋)といい、津久井から篠を仕入れて売る人がいた。その家には樫のクネがあって、庭や道端へ篠を置いて売っていた。フチマキ用の10メートルもあるような篠は道端へ置いていた。津久井の人たちは良質の篠を仕入れてきて、目籠を作る人たちに売っていた。
篠の伐り方…長く使えるメカイを作るためには、篠の伐り時が肝心である。篠が水を吸い上げなくなってから、つまり木が葉を落とす十一月中旬以降、一月末くらいまでが良い。これを『旬』という。二月には木の芽が吹き、水を吸い上げるという。遅くとも三月の彼岸までがいい、それを過ぎると節から芽(枝)が出てしまう。そうなるともう伐れない。竹も時期によって割れ方が違う。篠の刈り時はちょうど農閑期でもあり、その時期にメカイ作りや山へ燃料を取りに行くなどの仕事をした。
メカゴに用いるのはニイコ(今年生えた)の篠である。二年以上の篠にはハカマが少ないので、ハカマがたくさん残っているニイコを見分けて伐る。・・・中略・・・・・
他地域のメカイ作り…東中野でもオカイコとメカイが収入の柱だった。作ったのはザツメケイで、60枚をヒトッコレといった。97歳で亡くなった母は、94、5歳まで趣味でたくさん作っていた。ビニールの梱包紐でカラフルなメカイを作って人にあげていた。
大塚でも多くの家でメカイを作っていた。Iさん(昭和十一年生れ)によれば、籠を編むのはオフクロ(母)で、六角形の目になるように編んで形が出来ると、縁を巻けと言われてIさ
んがフチマワシをさせられた。Iさんが中学生のころまでメカイ作りをしていたという。
関戸(現多摩市)に横倉さんというメカイを買う専門の人がおり、東中野・大塚・和田(多摩市)あたりでメカイを作っている農家へは、この人が専門に回って来て買っていた。
篠は、今の桜ケ丘カントリーのあたりに火工廠(多摩弾薬庫)があり、その横にいい篠が生えていた。束にしてリヤカーに積んでたくさん持ってきた。それらはみな「かっぱらって来る」つまり所有者に断らずに伐ってくるのであるが、篠を伐ることは山主にとっても山の掃除になって良く、とがめなかった。
篠を伐らないと日照が悪くなり、櫟、楢といった薪炭の材料となる木が育たないからである。
また、メカイの生産地ではメカイを作れる娘は嫁の貰い手も多く、これが縁となって嫁ぐことも多かったという。 

文献…八王子市東部地域 由木の民族

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